甲子園に「出ましたよね?」 28年越しの夢舞台も…PL学園OBが避けてきた“トラウマ”

PL学園のOBで元ロッテ・小林亮寛さん【写真:喜岡桜】
PL学園のOBで元ロッテ・小林亮寛さん【写真:喜岡桜】

1997年ドラフト6位でロッテに入団したPL学園OB・小林亮寛氏

 夢を断たれた経験は財産になることがある。9日に閉幕した「第22回マスターズ甲子園大会 2025」は、大会2日目の5試合すべてが雨天中止になった。2年連続出場のPL学園OBチームは、木本OB(三重)との一戦が無くなり肩を落としたが、その中に1人だけ、昨年より表情が明るくなっている人物がいた。国内外でプレーし、2014年に現役を引退した右腕・小林亮寛氏(元ロッテ、現・九州ハニーズ投手コーチ)だ。

「昨年よりすごく気楽です。複雑な感情もまだありますが、気持ち悪いものではないんですよね」。同大会初参戦となった昨年、小林氏は青春時代を思い出していた。

 1997年夏、大阪桐蔭との大阪大会準々決勝。3回途中から3番手としてマウンドを任せられるも、サヨナラ逆転2ランを浴びた。1年秋に公式戦初登板を果たしたが2年時は怪我で1年間の戦線離脱。そんな小林氏を「キャプテンの南(健三さん)が、僕を『甲子園へ連れて行こう』と言ってくれて、みんなで発破をかけてくれました」。一致団結も9-10で敗れ、高校3年間での甲子園出場回数は「0」に終わった。

「平たく言うとトラウマなんですよね。PL学園に入ったのに甲子園に出られていないことが。PL学園にいるということは、甲子園に出ることが最低ラインであって、周りから期待されているのは日本一だと思うんです。なので、僕は(最低ラインを突破できていないことへ)すごく大きな後ろめたさがあるんです」

 数々の輝かしい実績も重くのしかかった。PL学園は1962年に甲子園へ初出場すると、1978年には初の全国制覇。1980年代に最強と称されるほどの存在感を放った。「先輩たちが築いてきたものを継承できなかった、壊してしまったんじゃないか」と自分を責めた。あの夏から28年、沈痛な思いを抱えてきた。

高校時代の悔しさ「何も報われなかった」

「PL学園や野球を好きな人と話をすると、会話の流れとして、まず『誰の世代ですか?』『甲子園に出ましたよね?』って言われるんです。それに対して僕は『この人は出てない世代』って言われ方をされるんですね。そんな言われ方、無いじゃないですか。普通の高校の野球部では。PLは『何回出たの?』と出場回数の話になるのが一般的。やっぱりそこでもトラウマ的な何かを感じてしまう。甲子園に出てない世代が目立っちゃうんですよね」
 
 夢舞台に初めて足を踏み入れた昨年は「どんな顔をして、何の意味を持って甲子園のマウンドに立つのかが自分でも分からないままでした。不安もあったし、何かを期待している自分もいるし」と、複雑な心境だったことを明かす。そして、登板を終えてからの胸中を、困ったように眉尻を下げてこう振り返った。

「意外と何も報われなかったんですよ、不思議と……。僕の1球がみんなを終わらせてしまったという思いも、あそこに立てば、溶けてなくなるんじゃないかなと思っていたのですが……。それはもう解消しないんですね」。

 やり残したことは取り戻せなかった。だが、気付いたことがあった。「トラウマは、克服して、解決しないといけないと思っていました。だけど、考えが変わりました。これも自分の人生として残していかないといけない。そう思うと気楽になったんです。『一生懸命やってきたからそういう思いになるよね』と共感できるという強みになる」と小林氏。染みついたあの日の悔しさが、夢破れた者しか得ることができない優しさへ変わろうとしていた。

(喜岡桜 / Sakura Kioka)

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