「覚えたんじゃない」右肘手術の“副産物” KO直前も…阪神ドラ1の人生変えた相棒の一打

1991年9月23日からドライチ入団投手が5試合連続で完投勝利
中村勝広監督率いる阪神がヤクルト、巨人と優勝争いを繰り広げた1992年シーズンに主力投手として活躍したのが、当時プロ4年目の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)だ。9勝を挙げてブレークしたが、この年は1勝目が「分岐点だった」と話す。4月8日の巨人戦(東京ドーム)で2回までに4失点しながら立ち直って勝利投手となったが、これは女房役の山田勝彦捕手(現日本ハムバッテリーコーチ)のおかげでもあったという。
プロ1年目(1989年)はフォームを崩して調整の日々。2年目(1990年)は4試合に登板したが、右肘痛を発症し、軟骨除去手術。1988年の阪神ドラフト1位右腕・中込氏にとってプロでの試練が続いたが、それにめげることなく、前を向いた。「手術してから、真っスラが出始めたんですよ。覚えたんじゃないです。肘が痛くて、肘を伸ばすと痛いから逃がすんですよ。そしたら手元でピュッと曲がるようになったんです」。
病み上がりのプロ3年目(1991年)はまだまだ1、2軍の往復が目立ったが、シーズン終盤、その新球・真っスラにメドが立ってからは投球内容も変わった。9月4日の広島戦(甲子園)では勝ち星こそつかなかったが、先発して8回2安打1失点と好投。9月22日の大洋戦(甲子園)ではプロ初勝利を2失点無四球完投で飾った。「それも(中村監督が)使ってくれたからですよ。ありがたかったですね」。
この中込氏の力投を機に、9月23日の大洋戦(甲子園)は湯舟敏郎投手(1990年ドラフト1位)、9月24日から26日までのヤクルト3連戦(甲子園)は野田浩司投手(1987年1位)、猪俣隆投手(1986年1位)、葛西稔投手(1989年1位)と、5試合連続で虎のドライチ入団投手が完投勝利を挙げる快挙もあった。
「それはたまたま僕が最初だった、ってだけ。で、次に僕が投げて止めたんですよね」と苦笑するように、中込氏は続く9月28日の中日戦(ナゴヤ球場)に先発して7回1/3、7失点で降板、試合も8-9で敗れた(敗戦投手は2番手の田村勤投手)。それでも10月5日の巨人戦(甲子園)で5安打3失点の完投負けとズルズルと崩れることはなかった。3年目は13登板、1勝4敗、防御率4.29に終わったが、過去2年とは違う手応えをつかんだ。
1992年は28登板で7完投…200回2/3で9勝、防御率2.42と完全開花
それが結果になって表れたのが4年目(1992年)だ。28登板で1完封を含む7完投、200回2/3を投げて、9勝8敗、防御率2.42と、ついに素質を開花させたのだ。そんな飛躍の年を語る上で「よく覚えている」というのが、そのシーズンの初登板となった4月8日の巨人戦だ。「(巨人投手の)斎藤(雅樹)さんにホームランを打たれたり、早い回に4点取られた。もう交代だなと思ったら、山田のおかげで続投できたんです」。
その試合、先発の中込氏は初回に2失点、2回にも2失点と打ち込まれたが、阪神打線が0-4の3回に一気に同点に追いついた。「(8番打者の)山田がヒットを打ったんで、僕はバントで(打席に)出してもらえた。山田が打ってなかったら交代だったと思います。それで、その後をたまたま抑えたんですよ。7回まで投げてね」。阪神は5回に1点勝ち越し、8回から中込氏をリリーフした田村も2回無失点で切り抜けて5-4で勝利した。
2回KOになりかけたのが、終わってみれば勝ち投手になり「これはついているなって思いましたよ」と言う。2登板目の4月15日の大洋戦(甲子園)は6回途中降雨コールドでプロ初完封勝利をマークし「それも雨ですからねぇ」。さらに3登板目の4月21日の大洋戦(横浜)は2安打2失点完投勝利と勢いづいた。阪神が優勝争いを繰り広げたシーズンに9勝を挙げて活躍した中込氏だが、すべては4・8巨人戦の1勝目があったからと考えている。
「あの試合に勝ったから、もう1回チャンスをやるわってなったと思いますからね。僕には、あれも分岐点でしたね。山田は僕にずーっと言いますよ。いまだにね。『あれがなかったらお前はない。俺のおかげだ』って」。中込氏にとっては、それがプロ2勝目でもあったが、そういう意味でもいつまでも忘れることはない勝ち星。好リードでも支えてくれた同い年の山田捕手に対して、もちろん、とても感謝している。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)