阪神の提案を拒否も…来なかった鷹からの連絡 王貞治氏が謝罪、諦めかけるも開けた道

新庄の要望で背番号を変更…オフに戦力外
タイガース生活はプロ13年目で幕を閉じた。元阪神投手の中込伸氏(西宮市甲子園七番町「炭火焼肉 伸」店主)は2001年オフに自由契約になった。1988年ドラフト1位入団以来、阪神一筋でプレーしてきたが、翌年のチーム構想から外れた。それでも現役は諦めなかった。入団テストを受けたダイエーとは縁がなかったが、2002年になって台湾球界から誘われて、兄弟エレファンツ入りが決まった。もう一度NPBを戻ることを目標に掲げて、海を渡った。
阪神が野村克也監督体制になった1999年シーズン以降、中込氏は思うような成績を残せなかった。ダイエットに失敗して調子を落とした1999年は15登板、2勝7敗、防御率3.27。巻き返しを期した2000年は1軍昇格が5月に入ってからで5月25日の中日戦(甲子園)でプロ初セーブをマークするなど、リリーフ中心の起用で25登板、3勝3敗2セーブ、防御率4.62に終わった。「野村さんは何とかして僕に仕事場を探してあげようとしてくれたんですけどね」。
思うような結果を残せないもどかしさがあった。「だいぶ我慢強く使ってもらったと思う。チャンスはいっぱいあったよね。すごいありがたいこと。でも晩年の僕はそれを生かせなかった」。プロ13年目の2001年は背番号が1から55に変わった。「それは新庄(剛志外野手)が(2000年オフに)『1番が欲しい』と僕に言ってきたので『わかった。お前にやるわ』って。それで僕は55になった。そしたら新庄は(FAで)メッツに行っちゃったけどね」。
そんないきさつで55番をつけた年が、中込氏の阪神でのラストイヤーになった。シーズン初登板の6月29日のヤクルト戦(甲子園)、7月1日のヤクルト戦(甲子園)、7月3日の中日戦(ナゴヤドーム)とリリーフでの登板3試合連続で勝利投手。負け展開、もしくは同点の場面で投げて、打線がひっくり返して3つの白星をつかんだが、それ以外は目立った活躍はなし。まずまずの投球は見せていたものの出番は敗戦処理が中心だった。
「あの(立て続けの)3勝は、たぶん、野村さんがゲンを担いだんだと思う。こいつが出たら勝つみたいな感じでね。それもありがたかったですよ。まぁ、あれが神様からの最後のプレゼント。その後はもう僕の運気もなくなって、おさらば。そういう感じでしたね」。8月24日の広島戦(西京極)で1-7の6回から3番手で登板して2回1失点。それ以降、1軍登板はなく、オフに自由契約になった。その年は12登板、3勝1敗、防御率4.08だった。

上がらぬ球速…台湾の出だしは低調でも最終的に15勝9敗
「若手に切り替えるというのもあったでしょうしね」と戦力外は、ある程度、覚悟していたが、あくまで現役続行を希望した。「やっぱりまだ不完全燃焼というか、もう一花咲かせたい気持ちもあったのでね。まぁ、今思えば、もう自分のボールはいってなかったんですけどね」。阪神フロントからはトライアウト参加を勧められたそうだが、それを拒んで、ダイエーの入団テストを受けたという。だが、吉報は届かなかった。
「(元阪神監督の)吉田(義男)さんが(ダイエー監督の)王(貞治)さんに『中込を頼む』と言ってくれたんですけど(同時期にテストを受けた中日戦力外の)鈴木平(投手)の方を(ダイエーは)獲るということでね。王さんに『吉田さんから聞いていたけど、今回はすまんなぁ』と言われて、これはもう無理だなぁ、どうしようかなぁって考えていたら、台湾(プロ野球)の兄弟でコーチをしていた(阪神OBでもある)榊原(良行)さんが『ちょっと来てみろ』と言ってくれたんです」
それが2002年1月だったが、前年秋のダイエーのテスト以降、まともに練習をしていなかった。「肩も全然できていない状態でテスト生みたいな感じで行ったけど、球速も120キロくらいしか出ていなかったと思う。でも、日本で実績があるし、ちょっと入れてみようかということで……」。こうして兄弟入りが決まった。背番号は阪神ラストイヤーから継続の「55」。海を渡っての新たな道が開けたが、調子の方はシーズンが開幕しても全く上がらなかったという。
「最初は1勝4敗だったかな。契約が週ごとで、悪かったら1週間で切られるんだけど、僕の場合、榊原さんが『もうちょっと待ってくれ』と言ってくれたんですよ。それから、ちょっと調子がよくなって、勝ちだしたんです」。巻き返した結果、台湾1年目は15勝9敗。「日本に復帰したいという気持ちもあったから、練習も頑張りましたよ」。異国の地での再挑戦が本格化していった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)