「引き留めてほしかった」最多勝右腕が“放置”された夏 感じた温度差…決断させた闘将の一言

1998年に入団会見を行う武田一浩氏(左)と中日・星野仙一監督【写真提供:産経新聞社】
1998年に入団会見を行う武田一浩氏(左)と中日・星野仙一監督【写真提供:産経新聞社】

MLB中継解説者・武田一浩氏、FAで中日移籍の舞台裏を説明

 小さな大投手にはメジャーリーグも注目していた。NHKのMLB中継解説者として活躍中の野球評論家・武田一浩氏は、日本ハム入団4年目の1991年に最優秀救援投手のタイトルを獲得。首脳陣と衝突した1995年のオフに、トレードでダイエーに移籍した。ダイエーでは1996年に自己最多15勝。初の最多勝を獲得した1998年には、フリーエージェント(FA)権を取得した。

 ダイエー1年目の1996年は4月9日のオリックス戦に移籍後初登板して勝利投手に。先発陣の軸としてけん引して4完封を含む自己最多15勝をマークした。8月28日の日本ハム戦で15勝目を挙げた時点でリーグトップを独走。最多勝のタイトルが見えていたが、チームは最下位に低迷しており、翌年を見据えて9月以降は3試合に投げただけ。シーズン終盤は1軍に同行しながら登板は控えていた。

 その間に日本ハムのキップ・グロス投手が猛追して逆転。王貞治監督から「投げなくていいのか? タイトルはどうするんだ?」と登板を促されたが「タイトルにこだわりがなかったんです。『全然いいです』みたいな感じでした」と無理はせず、タイトルを逃したのである。

「タイトルは獲りたいと思って獲れるものじゃないんですよ。運もあるし、『獲れる時には獲れるんじゃないですか』って感覚でいました」。その言葉通り、1998年に13勝で最多勝を獲得。そしてシーズン中に獲得したFA権を巡り、周囲ではいくつかの動きが出ていた。

 真っ先に動いたのは明大の先輩である星野仙一監督が率いる中日。3年前にもトレードでの獲得に乗り出して成立直前までこぎ着けていた経緯もあり、星野監督からは「『いいから来い!』みたいな感じで誘われていました」という。「仙さんは先輩ですし、とてもFAの勧誘の営業じゃない感じの言われ方をしてました」。さらに巨人も争奪戦に参戦してきた。

メジャーリーグが触手も「なかなか踏み出せない状況」

 ただ、当時はFA権を行使する選手が現在ほど多くなく「FAって何のこっちゃという感覚。新聞でもあまり書かれていませんでしたし、自分の中ではあまりフリーエージェントとは感じてなかったです」と振り返る。「王さんのファンでしたし、ホークスも強くなってきていたし、給料も上がるし、普通に残留するつもりでした」。ところが、夏場まで残留に向けた下交渉の打診がなかったのである。

「ホークスは動きがかなり遅かった。『出ていかないだろう』という感じだったと思います。引き留めてほしかったんですけど、王さんは『FAは選手が獲った権利だから』と尊重する人でした」

 171センチと決して大きくない体で抑えと先発のタイトルを獲得した「小さな大投手」には、メジャーリーグも触手を伸ばしていたという。「ある球団から話は来たんですけど、当時は日本人投手の評価が高くなかった。日本の3分の1ぐらいの給料になって、インセンティブがつく感じで、なかなか踏み出せない状況でした」。MLBへの憧れは胸にしまい込み、中日移籍を決断した。

「ホークスに残ろうと思っていたけど、星野仙一が許してくれなかったんです」。そう冗談っぽく語った後「星野さんにも恩がある。ドラゴンズに行くことにしました」と続けた。条件面では劣っていても、譲れないものがある。3年前も獲得に本腰を入れ、今回のFA交渉にも直接出馬した先輩と共闘する覚悟を決めたのだった。

 翌1999年は初めてセ・リーグでプレー。「気合入れて投げましたよ。精神的にも肉体的にも、その時が一番良かったんです」。開幕から先発陣の一角を担い、プロ12年目で初のリーグ優勝を味わった。1年前の決断が間違っていなかったことを、自らの右腕で証明してみせたのである。

(尾辻剛 / Go Otsuji)

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