プロのレベルに愕然…いきなり痛感「無理かな」 高校とは“別次元”、しがみついた救いの手

寮暮らしでプロの情報はさっぱり…ヤクルトの印象は「弱い」
プロ野球は、今年も選ばれし精鋭たちが新入団発表でバラ色の将来を夢見て目標を語る頃だ。現役時代に盗塁王のタイトルを獲得するなどヤクルト、楽天で走攻守3拍子揃った外野手として活躍した野球評論家の飯田哲也氏は、1986年秋のドラフト会議でヤクルトから捕手として4位指名を受けた。「いやー、僕は入団会見で何を話したかなぁ。本当に覚えてないんですよね」。プロの門を叩いたばかりの頃を振り返る。
ドラフト会議から日を置かず、担当スカウトが千葉・木更津の拓大紅陵高校に指名挨拶に訪れた。飯田氏は小枝守監督、川俣幸一部長に伴われ、校内の一室で対面した。「なんかもう、いきなり入る前提でしたよ。一発目から『条件はこれだから。これでいいね』と。僕はまだ高校生。何も分からないし、何も言う事がなかった」と笑う。背番号は58。寮生活のためプロの情報はほどんど皆無で、スワローズの印象は「弱い」ぐらい。実際この年は最下位に終わり、オフに新監督として関根潤三氏が就任したばかりだった。
迎えた12月17日。ドラフト指名選手らが集っての新入団会見が東京・東新橋の球団事務所で開かれた。飯田氏は指名からこの日までは、取材を受けた覚えがない。活躍した甲子園での報道陣への対応とはまた違う趣だった事だろう。「僕も自己紹介とかをしているんでしょうねぇ……。本当に全く覚えていない。緊張していたんでしょう」。
記憶が飛んでいるお披露目の舞台。しかし、会見後の出来事は今でも鮮明に浮かぶ。「食事会が行われました。球団の入っているビルに、しゃぶしゃぶのお店があって。選手の家族も来ていて会食しました。『うめーっ』って思いましたね」。同期で後に“ギャオス”と呼ばれる内藤尚行投手(愛知・豊川高校)もいた。「あの頃はまだ静かでしたよ。彼も高校生でしたから」。当日の内に学校の寮に戻った。「僕は東京の調布出身なので、週末なら自宅に帰ったはず。内藤は愛知だから泊まったかも」。確かに水曜日だった。
1年目から米国でキャンプ…右も左も分からず、救われた多弁な乱橋“先輩”
ヤクルトは新年1月10日から、まずは若手中心の合同自主トレが始まった。以降は主力も加わっていく。場所は神宮球場ではなく隣接するコブシ球場と室内練習場。「新人は別の枠でやってました。テレビで観ていた方々の姿が視界に入ります。『あっ、若松(勉外野手)さんだ。あそこには八重樫(幸雄捕手)さんもいる』とか言ってましたね」。高校生らしく目を輝かせた。
飯田氏は高3夏の甲子園大会後も体を動かし続けていたので、メニュー自体は無難にこなせた。だが、ブルペンでは気後れした。「先輩方のボールが凄いんです。真っ直ぐのスピードも変化球のキレも。なかなか捕れずにポロポロやるし……。俺こんなんじゃ無理かな、という心境に陥りましたね」と、プロのレベルの高さを痛感した。
初のキャンプは米国アリゾナ州ユマ。当時は1、2軍とも同じキャンプ地で汗を流した。「ただでさえ初めてのキャンプで何も分からない。それがいきなりアメリカですから、戸惑う事ばかりです。まあ、プロ1年生なのでお客さん扱いはして頂きました。『ああでもない、こうでもない』ではなく『ハイ、次はバッティングね』と流れ作業のように指示に従って動いてました」。
高校時代までとは異なり、幅広い世代と行動を共にする。身体だけでなく、気疲れも溜まりやすい。苦しい時に救いの手を差し伸べたのが、宿舎で同部屋だった2つ年上の先輩だった。「乱橋(幸仁投手)さん。本当によく喋る方でしたから、助かりました。今は新人でも個室なのかな。僕は相部屋で良かったですよ」。
今年のドラフト指名選手たちもプロの道へ突き進んでいく。後輩たちへ、仮にタイムスリップができて当時の飯田“選手”に助言するならば――。「コミュケーション能力を上げた方がいい。挨拶、話しかける、質問する。今の子は、なかなか喋らないみたいですけど。分からなかったら、何でも聞く。そのためには聞き方であったり、練習の姿勢であったりも必要です。一番大事だと思いますよ」。
(西村大輔 / Taisuke Nishimura)