「野球部=丸刈り」許せなかった“掟” 1年後に断髪も…嫌々バリカンに「涙が出た」

近鉄で活躍した栗橋茂氏【写真:山口真司】
近鉄で活躍した栗橋茂氏【写真:山口真司】

野球中継よりもヒーロー番組が好きだった

 近鉄バファローズの伝説のスラッガー、鍛えられた肉体から「和製ヘラクレス」との異名でも知られたのが栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)だ。NPB通算215本塁打。強打者ゆえの“死球攻め”に遭っても『こっちをビビっているからだろうって優越感があった』と言い切るなど、グラウンド内外での豪傑ぶりも有名だが、その原点である少年時代は「バットの持ち方さえもわかっていなかった」。なかなか当たらなかったという。

「僕らの子どもの頃は遊びが野球みたいなものだった。キレのグラブを買ってもらって、コンクリートの塀に投げて“一人野球”をよくやっていたよ」。1951年8月10日生まれ。東京都板橋区出身の栗橋氏は板橋区立上板橋第二小学校に通った。「小学校5年生くらいに、そろばん塾の(野球)チームに初めて入って、1試合だけ出た。途中から8番に入ってレフト。(試合の)終わりの方にね。(周りは)みんな、うまかったんだよね。みんなについていくって感じだった」。

 近鉄では4番打者も務めた栗橋氏だが、少年時代については「左バッターなのに、バットは(右手と左手の位置を)逆に持っていたからね。それさえもわかっていなかった。ティーバッティングとか、トスバッティングみたいなのをやっても当たらなかった。返しが早くなっちゃうからね。誰も教えてくれないもん、そんなの」と苦笑する。それが、猛牛を代表するスラッガーの打者としての”始まり“だった。

 プロ野球には「興味がなかった」という。「王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さん、金田(正一)さん、広岡(達朗)さんって名前は聞いたことがあったけど、長嶋さん以外は全然わからなかった」。テレビ中継も見ていなかったそうだ。「テレビでは、どちらかといえば、(特撮ドラマの)ナショナルキッドとか、(テレビ映画の)快傑ハリマオ。(主人公のハリマオみたいに)サングラスして(頭に)風呂敷を……。そういうのが得意だったね」。

丸刈りが嫌で当初は避けた野球部

 板橋区立上板橋第二中学では剣道部に入部した。「野球部に入るつもりだったんだけど、野球部は丸刈りにしなければいけないっていうんで、剣道部にしたんだよ」。だが、1年で方向転換した。「(中学)2年になったら、剣道部も丸刈りだ、っていうから辞めた。しばらくドッジボールとかで遊んでいたら、野球部のヤツに誘われてね。お袋には剣道部を辞めたのに、そんなの駄目だって言われたけど、もう絶対辞めないからって言って、2年から野球部に入った」。

 とはいえ、嫌だった丸刈りにしなければいけない。「バリカンで丸刈りにするときは涙が出てきたよ。だから、本当は(野球部に)入りたくなかったんだけど、あの時の友達の言葉が効いたのかなぁ」。中学2年から入った野球部。中学3年の時は5番打者でポジションはファーストだったそうだ。「ピッチャーでエースが3番で、キャッチャーのヤツが4番、で、俺が5番。板橋で優勝して、都大会に出て、大島と俺らの中学が3位だったな」。

 小学校時代はバットの握りもわかっていなかったのが、中学で練習を重ねて、成長していった。「いつだったか、OBが来て俺のことを『こいつはいいバッターだ』って言っていたのを覚えている。でも、みんなうまかったから。それでも中の上くらいかな。派手さはないけど、大会になると、結構1試合に1本はヒットを打っていたね。ホームランは打った記憶がない。やっぱり3番と4番のヤツが打つから。俺はどっちかというとライト前ぐらいだったね」と振り返った。

「上板橋(第二中)が都大会に出たのは俺ら(の中3)の時が初めてなんですよ。板橋で優勝したのも初めてだったからね」。中学の剣道部がずっと坊主頭ではなかったら、そのままだった可能性もあるし、剣道部を辞めた後、タイミングよく野球部の友人に誘われなかったら、栗橋氏の野球人生はどうなっていたかわからない。「そいつとは仲がよくて結構遊んでいたんだよね。大人になってからも遊んでいた。もう亡くなっちゃったけどね」と懐かしそうに話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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