プロ入ったのに“生活苦”「一発で折ったら地獄」 知った現実、ドラ1と明確な待遇差

ロッテ前コーチ・大塚明氏、入団直後の若手時代を回顧
高卒1、2年目は道具代もバカにならない。ロッテでチーフ打撃コーチ兼走塁コーチを務めた大塚明氏は今オフ、32年間所属したチームを退団。来年はプロ入り以来初めて球界を離れて外からプロ野球を見守る。50歳の節目に新たな道に進む選択を下し、若手時代を振り返った。
大分の別府羽室台高から1993年ドラフト3位でロッテに入団。現在は新人にも用具メーカーから道具が配給されるなど手厚いサポートがあるが、32年前は状況が異なっていたという。「1軍に定着するまでは自分で払っていたんですよ。バット1本1万円の時代。だいたい月に10本注文していましたね」。1年目の年俸は450万円。キャンプから始まり、シーズンは半年以上ある。この出費は大きかった。
高校時代の金属バットから木製バットに変わった当初は当然、慣れるまでに時間がかかる。「下手くそだからバットを折るじゃないですか。今はメープルとか硬いバットを買えますけど、当時はほとんどアッシュだった。すぐ割れるんです。一発で折ったら地獄でした」。守備の猛練習で右肩を痛め、打撃のバランスを崩していた時期でもあり、バットを折ってしまうことが多かった。
周囲と待遇の差も感じていたと回顧する。「甲子園に出て有名だった選手はメーカーから道具をもらえていましたね。ドラフト1位で入ってきた後輩も湯水のように(道具が手に)入ってきていました」。バット以外にも打撃用手袋、グラブなど必要な道具は多い。高校時代に甲子園出場経験がなく、中央球界では無名だった大塚氏は自費で購入するしかなかったのである。
救いの手を差し伸べてくれたのは他球団の選手。関係者がつないでくれた縁で、巨人・四條稔内野手らから何度かバットを譲り受けたことがあるそうだ。「当時の人は凄いですよね。他球団の選手にバットをくれるんですから。あの時のことは感謝してもしきれない。もらえてなかったら、生活が大変だった」。今も感謝の思いは消えない。
2軍で四苦八苦…「気持ちが滅入って」実家などに長電話
若手時代は寮生活。寮費は安かったが、道具代以外にも大きな出費があった。電話代だ。「携帯電話が出始めた時期で、長距離電話が高かったんです」。未経験だった内野手に挑戦した1年目は2軍で34失策と大苦戦。「気持ちが滅入っていた」と大分の実家の両親や、地元の友人に長電話して落ち込んだ気分を紛らわせていた。
携帯電話が普及した現在はさまざまなプランがあって料金が抑えられるが、まだ所有者が少ない当時は通話した分だけ料金はかさんだという。「一度、月7万円というのがありました。だいたい月に5万~7万円。これは大変だとなって、公衆電話から電話するようにしました」。以降は寮の2階に2台設置されていた緑色の公衆電話を利用して、出費を抑えたそうである。
「バット代だけで月に10万円して、携帯電話代が7万円もかかっていた時は本当にきつかった。バット代は先送りにしないと生活できない。それで先送りにすると、シーズンオフにごっそり引き落とされた。だからオフはお金がなかったです。若い時は貯金もできませんでしたね」
コーチ兼任を含めると現役生活は17年。ただ、金銭に苦労した下積み時代は長かった。1軍初出場は入団4年目。6年目の1999年に107試合に出場して1軍定着し、ようやくバットを支給してもらえる立場を確立した。
(尾辻剛 / Go Otsuji)