お金ないのに援助“拒否”「嫌だ」 数十円のお菓子すら買えず…屈辱が生んだ近鉄大砲

団地の階段を駆け上がったアルバイト
“和製ヘラクレス”の基盤は……。筋骨隆々のパワフルスラッガーで名を馳せた元近鉄外野手の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は「中学の時はなで肩で普通の男の子だったよ」と笑う。その体付きが変化していった理由のひとつとして、考えられるのは中2から高3までの5年間続けたヤクルト配達という。「あれで鍛えられた。あれは大きかった」。このアルバイトを始めるにはきっかけもあった。それには洋菓子『エクレア』が関係していた。
栗橋氏は1965年、東京都板橋区立上板橋第二中学2年から毎週月曜日から土曜日まで、朝5時起きでヤクルト配達のアルバイトをしていた。「ヤクルトが大瓶、小瓶の頃。今、思えば、あれがよかったと思うよ。朝からランニングしているような感じだったからね。途中からは、家を出て、何分で(バイトを終えて)帰ってこれるか、というのを自分でやりだしたしね。(配達先には)団地もあったし、小瓶1本のために、4階まで階段をガーッと上がって、下りてきたりね、もうトレーニングだったよね」。
団地にエレベーターなんて全くない時代に、自分自身と競争していたという。「最初は(バイト終了まで)1時間40分くらいかかったのが、最高48分というのがあったからね。朝方だから暗いし、新聞配達の人に会ったら『ウワー、びっくりしたぁ』なんてお互いに言ってね。東京は雪が降るから、あの時は大変だったね。自転車をそんなに動かせないからね。土曜日なんか(日曜日のと)2日分だからね」。それを高校3年まで続けたそうだ。
「みんながまだ寝ている時に朝から人より何倍もランニングをやっていたよね。(通学のため)バス停までも走った。しょっちゅう走ったね。鍛えられた。たぶん、強くなった。全然違うと思うよ。それまで足は、お坊ちゃんが速いかなぁくらいだったのが、もっと足は速くなったしね。まぁ、喧嘩も強かったんだけど、それもやっぱりお坊ちゃんで、体の大きいヤツには振り回されていたのが、だんだんとそういうのも強くなっていったよねぇ」
エクレアを1人だけ買えなかった悔しさがきっかけ
ヤクルト配達のアルバイトを始めるにはきっかけもあった。「親に金がないから、国からの援助を受けられるみたいなのが、中学の時にあったんだけど、俺『嫌だ!』って言った。妹が『お兄ちゃん、親が困っているんだから、ちゃんとそういうのを受けたら』って言ったけど『嫌だ、恥ずかしい』と言って断って、それでヤクルト配達をしたんだよ」。栗橋氏はそう話してから「その前に、中学1年の時にお金がなくて悔しい思いをしたんだよね」と付け加えた。
「クラスの仲のいい奴とみんなで帰る途中で、パン屋みたいなところに入った。チョコレートのシュークリーム、ホットドックのちっちゃいみたいな『エクレア』とかいうのが25円とか35円とかで売っていた。その時、5、6人いたんだけど、俺だけ買えなかったんだよね。金がなかったから。返すあてもないのに友達に『明日返すからお金を貸して』って言ったら『嫌だ』って言われて……。みんなは(頬の)この辺にチョコをつけていたけど、俺だけ食べられなかったんだよ」
栗橋氏は「そんな悔しい思いもしたから、ヤクルト配達をしようと思ったんだよ」と話す。そんなこともあって、始めたアルバイトが肉体強化につながった。野球にも役立った。1966年、中学3年の時には「5番・一塁」で都大会にも出場して、チームの3位躍進に貢献した。「都大会で、そこまで行ったんだけど、やっぱり、あまりにも有名じゃない中学校だったから、どこの高校からも誘いはなかった」というが、片鱗は見せ始めた頃だろう。
1967年、栗橋氏は私立帝京商工(現・帝京大高)に進学した。「(当時)都立では一番野球が強かった都立(第)四商を受けたんだけど、もろに落ちて、それで(帝京)商工に行くことになったんだけどね。昔の(帝京)商工ってチンピラ学校だったからね。いやいや、ホントに悪かったんだから」。当然の如く、野球部は厳しかったという。「1年の時は一番大変だったね」。ヤクルト配達プラス超ハードな生活で、さらに鍛えられていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)