“奇策”が生んだ悲劇 あっけなく終わった高校最後の夏…無人の外野に弾んだ白球

帝京商工で爆発した打棒、木製バットで100m超え
元近鉄のレジェンドスラッガー・栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は帝京商工(現・帝京大高)時代、外野手兼投手として活躍した。1969年の高校3年夏の東京大会では高校生離れした強烈な打棒を披露するなど、左のスラッガーとして急成長。左腕投手としても安定感あるピッチングを見せるようになった。惜しくも準々決勝で、その年に甲子園出場を果たした日大一に1-2で敗れたが、その時の指揮官による大胆な“戦法”もまた印象に残っているという。
帝京商工1年(1967年)秋から外野のレギュラーポジションをつかんだ栗橋氏は野手として日増しにレベルアップしていった。エースではなかったが、投手としても起用された。“デビュー戦”の練習試合では打者4人に4四死球で降板など当初は制球力に苦しんだが「球は速かったからコントロールがつけばなんとかなるっていうのがあった。投げ込んだというか、昔は投げ込みが普通だからね。今みたいに大事に、大事にじゃないから」と、さらに鍛錬した。
1968年、栗橋氏が2年夏の帝京商工は東京大会5回戦で日大三に1-11で敗退。「コールド負け。確か俺がヒットを打たれてコールドを決められたんだよね。それまでの試合は投げていなかったと思う。俺が投げていたら、そこ(5回戦)まで行ってないよ」と笑い、投手としての試練は続いたようだが、それで終わらなかった。「そんなにコントロールがいい方じゃないけど、まぁまぁ、普通くらいにはなったよね。デッドボールとかはなくなった」。
野手としては早くから主軸だったが、1969年3年夏の東京大会ではそのすさまじい打棒も見せつけた。「明大グラウンドでホームラン2本と3ベース。あそこは両翼100(メートル)だけど、あのライトスタンドの屋根に当てたホームランとランニングホームラン。それとセンターは125(メートル)でエンタイトル2ベースではなくて(グラウンドルールで)エンタイトル3ベース。木のバットで100メートルのフェンスを越える高校生なんて、そんなにいなかったと思う」
指揮官が見せた“内野5人”の奇策
まさに後の猛牛4番打者の片鱗だったが、その大会では投手としても成長した姿を見せた。帝京商工は準々決勝で日大一に惜しくも1-2で敗れたが、栗橋氏はその試合に先発して好投した。「(0-0の)7回に2点とられたけど、それまでは内野安打1本に抑えていたんだよ。その時はストライクも入ったしね」。7回の失点シーンもよく覚えているという。「(日大一の)伊藤ってヤツに2ベースを打たれてノーアウト二塁。ここで帝京商工は内野5人の“ドジャース戦法”をやったわけだよ。もう50何年も前のことだけどね」。
帝京商工の若色道夫監督は、これより後の1976年に栃木県立小山高を、監督として甲子園に導く。小山では広沢克己氏(元ヤクルト、巨人、阪神)を育てたことでも知られるが、それ以前に栗橋氏の恩師でもあった。そんな指揮官の思いきった采配。「外野手を2人にして、三塁手の前に外野手を置いてバントをさせないってヤツをね。そしたら相手は打ってきた。(日大一の)林っていうのがね」。作戦は裏目に出た。
「センターへ打たれた。誰もいない真ん中に。普通だったらセンターライナーぐらいなんだけど、それが3ベースになった。それで1点が入って、その後、犠牲フライかなんかで1点とられたんだったかな……」。帝京商工は7回裏に1点を返したが、そのまま1-2で敗れた。日大一が甲子園に出ただけに「ホント惜しかったよね」と悔しそうに話す。高校野球はそれで終了。だが、投打ともにキラリと光るものを見せた最後の夏でもあった。
高校時点でプロからの話は「全くなかった」というが、大学からの誘いに関しては「(東京)六大学とか、大学は何校か来ていたみたい」とのこと。「でも俺は大学に行きたくなかった。社会人の本田技研に行きたかった。埼玉のね。まぁまぁ強かったしね」。そんな時に若色監督の勧めで駒大の練習に参加することになったという。「左バッターが欲しいということでね」。進学する気など全くないまま行った。それがまた運命の分かれ道だった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)