地元に嫌われた球団…勃発した“反対運動” 部屋に篭ったドラ1「とんでもないところに」

ナイター設備建設の反対運動に直面「とんでもないところに来てしまった」
ここはいったい……? 元猛牛戦士のレジェンド・栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は東京都・板橋区出身だ。1973年ドラフト1位で駒沢大から近鉄に入団したが、初めての関西生活には驚くことも多かったという。合宿所と球場があった藤井寺では当時、ナイター設備反対運動が繰り広げられており「とんでもないところに来てしまったと思った」。関西弁などにもなかなか馴染めず、大いに戸惑ったそうで「しばらく部屋から出なかったよ」と振り返った。
1974年、プロ1年目の栗橋氏は藤井寺市の合宿所「球友寮」での生活をスタートさせたが、まず全てにおいて違和感があったそうだ。「最初、タクシーで行ったんだけど、だんだんと藤井寺の方に来るにしたがって……。途中でため池があるんだよね。なんでプロ野球の球場があるところに、そんなのがあるのかと思った。ため池なんか、俺、東京では見たこともなかったしね。そう思っていたら、今度はナイター反対とか書かれていて……」。
当時は藤井寺球場のナイター設備建設に対して、周辺住民が完成後の応援による騒音などを問題視して「ナイター公害が起きる」と反対運動を起こしていた。「すごかったからね。電柱や団地にも“ナイター反対”をぶら下げて……。“ママ、うるさくて、勉強できないよ”とかも書いてあった。そんなのを見て、近鉄っていうのは地元の人にも嫌われているんだと思ったよ。俺はとんでもないところに来てしまったんだなと……。それが合宿入りの時ですよ」。
今ではすっかり“藤井寺の人”になっている栗橋氏だが、関西弁にもなかなか馴染めなかったという。「もう言葉は全然……。俺は東京弁だし、何かアジア系の海外に来たみたいだったね。(藤井寺は)大阪市内ともちょっと言葉が違うからね。俺が来た頃は、まだ、“われぇ!”とか、“おのれ!”とかも飛び交っていたし喧嘩してんのかなぁって思ったよ。最初は(寮の)部屋からもしばらく出なかったもんね」と当時を思い起こした。
キャンプ早々に腱鞘炎…コップ持てず、歯磨きすらままならず
さらに関西人についても「スーッと入ってくるのは天下一品だよね」と言って、こう続けた。「知らない人に『お前、しっかり頑張らなきゃいかんぞ』って親しそうに言われた。何かなれなれしいなぁとは思ったけど、まぁ、表現とか形がちょっとあれでも、俺のことを応援してくれているんだなぁと思って『頑張ります』と言ったら『ところでお前、誰だよ。名前は何ていうんだ』って。何、この野郎と思ったよね。東京ではそんなふうに入ってこないでしょ」。
栗橋氏は「俺、7年くらい慣れなかった。7年くらいは東京に帰りたくてしかたなかったね」と話した。ただし、近鉄内での先輩、後輩の上下関係などは全く気にならなかったそうだ。「別にそういうのは何とも。俺は行くときは、先輩でも行くしね。行くよ、俺は本当に」と笑いながら言い切ったが、肝心の野球の方はプロ1年目の宮崎・延岡キャンプで苦しんだという。
「まだキャンプだから(選手たちは)そんなに出来上がっている感じじゃないから、(レベル的には)すごいなとかは思わなかったんだけど、フリーバッティングの時のピッチャーみんなに癖があったんですよ。ボールが変化したりとかで、芯に当たらなかった。大学はちゃんと素直な球で打たせてくれた。そんな変なボールを投げたら(大学)4年生だったら『こら! しっかり投げんかい!』ってなるわけだしね。まぁ、わざとそうしていたのかもしれないけど、あの時は芯でとらえることができなくてねぇ」。それが故障も招いた。
「そんなんでやっていたら腱鞘炎になった。キャンプが始まって1週間か10日くらいでバッティング中止。もうコップも持てないような、歯も磨けないような感じでね。それでもキャンプは最後までいたけど、大阪に帰ってからも、しばらくはバットが振れない状態だったね」。慣れない関西生活に加えて、延岡キャンプでの怪我……。それが、後に近鉄の4番打者としてフル回転する栗橋氏のプロ野球人生の始まりだった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)