監督の“左右病”に絶望「絶対無理だもん」 結果出しても…もう1つの闘い「結構損した」

1978年に初の規定打席→打率.292、20本塁打、72打点…忘れない開幕戦
元近鉄外野手の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)はプロ5年目(1978年)に初めて規定打席に到達して、20本塁打を放った。いよいよ、伝説の強打者が本領を発揮しはじめたシーズンだ。この年は開幕戦(4月1日、クラウン戦、平和台)で2本塁打を含む3安打5打点と打棒を爆発させての好スタートを切ったが、この裏には近鉄の大エース・鈴木啓示投手からのアドバイスとゲキがあったという。
栗橋氏はプロ2年目(1975年)に42試合、1本塁打、1打点と低迷。「俺はもう無理」と辞めることも考えていたが、3年目(1976年)の5月12日・太平洋戦(北九州)に風疹欠場の島本講平外野手の代役としてスタメン起用されたのをきっかけに調子を上げ、101試合で6本塁打、24打点。4年目(1977年)は初の開幕スタメン(「3番・DH」)の座もつかみ、113試合、13本塁打、39打点と数字を伸ばした。しかし、それは指揮官との“闘い”でもあったという。
「あの頃は1打席目にホームランを打っていても、2打席目にしょうもない左ピッチャーが出てきたって交代。(当時の近鉄監督の)西本(幸雄)さんは、そういうの、強烈やったからね。(歌手の)麻丘めぐみの(ヒット曲タイトルの)『わたしの彼は左きき』みたいなのが、出て来ても代えるんじゃないかと思ったくらい(笑)。まぁ、昔の監督ってみんな結構、そういう感じだったけど、それがなかったら俺、もうちょっとホームランを打てたんじゃないかな」
そんななか5年目(1978年)は128試合に出場し、初めて規定打席に到達して打率.292、20本塁打、72打点とさらにジャンプアップしたが、この年で思い出すのは3安打5打点と大活躍したクラウンとの開幕戦(4月1日、平和台)という。1回表に栗橋氏は、相手投手の左右をうかがう偵察要員「3番・右翼」久保康生投手の“代打”で登場し、右腕・山下律夫投手から先制1号ソロを放った。「確かあの年の12球団一番最初のホームランだったと思う」。
2打席目も山下に2点三塁打を浴びせ、3打席目は右腕・大屋好正投手から2号2ランをかっ飛ばした。「あの時はね、開幕戦のゲーム前に鈴木さんから『クリ、ドキドキしているか』と聞かれた。『ドキドキしています』と答えたら『それはいいことだ。いい意味でな、緊張感がなくちゃ駄目だ』って。そして『プライドを持て!』と言われたんですよ。(3安打5打点は)そういう話をして臨んだヤツだね」。エースからのアドバイス&ゲキで1打席目から結果を出したわけだ。
開幕戦で3安打2HR5打点も…3打席目で交代「そういうのがよくあった」
試合は近鉄が15-3と大勝。開幕投手だった鈴木は完投勝利を飾った。だが、この日の栗橋氏の出番は3打席目までだった。太平洋の3番手が左腕になるとその回の守備からスパッと交代を告げられた。「そういうのがよくあったんだよね。そういう面で本当にヒットの数とか、ホームランもやっぱり結構損したと思う。だって(1試合2発みたいに)固め打ちとかをやらないと数が増えなかったからね」と苦笑して、こう続けた。
「まぁ、そういう使われ方だったから、俺はだいぶ早くから2000本(安打)は諦めたもんね。無理だもん、絶対に、そんなの。びっちり(試合に)出たってなかなか難しいのに、そんなに代えられたら、もう絶対無理。まして大卒だから(現役期間の)年数がないしね」。近鉄が前期2位、後期も2位のプロ5年目は、そういう状況と闘いながら、オールスターゲームに初出場、6月からは主に4番を務め、規定打席に到達するなど、プライドを持って成績を残したシーズンだった。
その年の近鉄は後期優勝に王手をかけながら最終戦(9月23日、藤井寺)で阪急に2-4で敗戦。これでマジック1とした阪急が次の試合(9月27日、ロッテ戦、川崎)に勝って優勝した。「9月23日は(阪急エースの)山田(久志)さんに(5安打完投で)やられたんだよね。こっちは鈴木さんが(ボビー・)マルカーノ(内野手)にホームランを打たれて……。この日は朝まで飲んだ。藤井寺で飲んでいて、誰かにどこか連れていかれたんだろうね。気がついたら阿倍野だった」。悔しい負けも経験して、栗橋氏は次につなげていった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)