開幕4番も即負傷「もう駄目だ」 グラウンドで絶望…ファンからは屈辱の応援歌

元近鉄・栗橋茂氏【写真:山口真司】 
元近鉄・栗橋茂氏【写真:山口真司】 

元近鉄・栗橋氏が悔やむダイビングキャッチでの負傷

 元近鉄主砲の栗橋茂氏(藤井寺市・スナック「しゃむすん」経営)は、プロ8年目の1981年シーズンについて「ちょっと悔いが残ったよね」とつぶやいた。開幕から4番を任されたが、11試合目の4月21日の阪急戦(西宮)の守備で左肩を痛めて離脱。結局、92試合の出場で打率.263、11本塁打、41打点に終わったからだ。リーグ3連覇を目指したチームも前期6位、後期4位でトータルでは最下位。恩師の西本幸雄監督が勇退した年でもあった。

 大砲のチャーリー・マニエル外野手が、オフに近鉄を自由契約となりヤクルトに復帰。1981年シーズンの栗橋氏への首脳陣の期待はなおさら大きかった。「西本さんは『マニエルがいなくなって、クリが主役だ!』ってドーンと言っていたしね」。しかし、その期待に応えられなかった。開幕11試合目にアクシデントに見舞われた。「西宮で(阪急内野手の)加藤英司さんの打球を追って……」と振り返り、唇を噛んだ。

「同じことをやってしまったんだよね」と虚しそうに明かす。前年(1980年)の高知・宿毛キャンプ2日目にダイビングキャッチの練習で左肩を痛めてリタイアし、開幕前の約2か月のほとんどを棒に振った。その時と同じく、ダイビングキャッチでの負傷だった。「肩を打った。加藤英司さんのちょっとドライブがかかった感じのをね」。痛めたと分かったと同時に絶望感がこみ上げたという。

「前の年はキャンプの初めに痛めたから、開幕に間に合ったけど、この年は開幕してから10試合目くらいだからね。1回、怪我しているから分かるわけよ。(治るまでに)どのくらいかかるか。西本さんはまたかって顔をベンチでしていたけど、俺はもう“今年は終わったな”って感じだった。その時は泣いたもん。もう駄目だ、駄目だって……」

 治療、リハビリを経て5月下旬に1軍復帰したが、それもかなり無理をしてのことで出番は代打か指名打者(DH)だった。「守備はできなかったからね。ボールが投げられなかったんだから」。バット1本での勝負だったが、万全ではないため、思うような結果は出せなかった。シーズン1号が飛び出したのは前期終盤の6月24日の南海戦(大阪)。山内新一投手から放った一発だったが、それは4月21日の怪我以来の守備(左翼)についた試合でもあった。

「1本打った時がもう(シーズンが始まって)3か月、半分たってからだもんね。やっぱりあの怪我はもったいなかったですよ。結構行け行けの時だったからねぇ」。そこから巻き返しに入ったが、数字はなかなか伸びなかった。特に打率は9月中旬くらいまで2割台前半をさまよった。「南海ファンにやじられましたよ。『♪いっぽーん、うってもー、にわりさんぶ(1本打っても2割3分)』とか(スタンドで)歌われてね……。まぁ、その通りですってことだけどね」と笑いながら話したが、当時は屈辱だったはずだ。

西本監督ラストイヤーで最下位、果たせなかった“恩返し”

 その年の近鉄は、栗橋氏がほとんど機能しなかった前期を最下位。後期は9月20日から最終戦までの12試合を11勝1敗と勝ちまくって4位と盛り返したが、シーズントータルでは最下位だった。「西本さんがやめる年に最下位だからね。ちょっと悔いが残るよね」と栗橋氏は声のトーンを自然と落とした。時には喧嘩をするなど、語りきれないほどの思い出がある恩師のラストシーズンに、怪我のため本来の力を発揮できなかった。まさに無念の思いだった。

 そして、こう続けた。「(勇退後の)西本さんにそんなに相談はしなかったけど、西本さんが(評論家としてグラウンドに)来られた時は意識しましたよ。そんな時はよく打ったから、俺としては来てくれた方がよかったね。西本さんって(監督の時から選手を)よく見ているじゃない。こっちも常に見られているような感じだったから、そういうのから解放されたら、違う意味で打てるのではって思っていたんだけど、そうじゃなかったんだよね」。

 それだけ西本イズムが染みついていたということだろう。恩師の監督ラストイヤーを飾れなかった悔しさとともに、その数々の教えは栗橋氏にとって財産として残っている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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