広島右腕を襲った血行障害「箸も持てなかった」 手術→復帰直後に肩故障…覚悟した引退

元広島・紀藤氏はプロ2年目に血行障害、3年目に右肩関節唇
広島など3球団で通算22年の現役生活を送った紀藤真琴氏(株式会社EJフィールド代表取締役)だが、プロ3年目の1986年には引退を考えた時期があったという。2年目に血行障害、3年目には右肩関節唇と立て続けに故障したからだ。「お袋にも『もう駄目だったら帰って来なさい』みたいなことを言われていました」。そこで踏みとどまることができたのは、米国フロリダでの針治療のおかげだった。
1983年のドラフト3位で中京高(現・中京大中京)から広島入りした紀藤氏は、投手としてプロ生活をスタートさせたが3年目までは1軍未登板だった。立ちはだかったのは怪我だ。「2年目の夏頃から(右手の)指が痛いな、冷たいなと感じたんです。人差し指と中指の2本の指に血が通っていなかったと思う。(壁に)コンとやっただけで痛ぁってなるんですよ。痛すぎて箸も持てなかった」。ただ、病院には行かなかったそうだ。
それどころか、その状態で米国フロリダ教育リーグに参加したという。「僕は病院に行きたかったんですけど、当時の人たちは“フロリダは暖かいから行ったら治るかもしれないから行けよ”って感じで……。向こうで治るわけないですよね。結局、痛くて投げられなかった。後ろでスコアを書けって言われたけど、書きたくてもボールペンが持てないんですよ。痛くて、痛くて……」。教育リーグを終えて帰国後、病院に行き、血行障害と診断されて手術を受けたそうだ。
「教育リーグに行ったんだけど、何の教育にもなっていないですよね(笑)。行って何もできずに、ただ試合を見ているだけでしたから。手術は、右手人差し指と中指の下のところを(処置して)15針くらい縫いました。手術後、指に血が流れるのがわかりましたよ。じわーっと、あったかくてねぇ。ああ、よかったと思いましたね」。そこからリハビリに入り、3年目には投げられるようになったそうだ。だが、今度は……。
「良くなったらうれしいもんだからガンガン投げるじゃないですか。肩を痛めたんです。今でも覚えていますね。阪急の2軍球場で投げたとき、あれ、肩がちょっとおかしいなと。それから日を追うごとに腕が上がらなくなってきて病院に行ったら『関節唇を痛めていますね』と言われました。痛くて今度は顔も洗えなかった。歯も磨けなかったです」。まさに一難去ってまた一難だった。「手術も考えたけど、もう球を投げられなくなるかもしれないと思って、しなかった」。引退を覚悟したのもその頃だった。
「野手転向も考えたけど、お袋にも言われたし、早く辞めて(実家のある名古屋に)帰った方がいいのかなって悩んでいました。そうこうしているうちに、またフロリダ教育リーグの季節になって、とりあえず行けって言われたんです。えっ、また? と思いましたけどね。その時は新宿の小守治療院から先生が(フロリダ教育リーグに)トレーナーとして来られていたんですよ」。米国で治療を受けることになった。
回復した右肩、4年目に果たしたプロ初登板
「先生にいろいろマッサージをやってもらって、『ああ、たぶんここだな』って、鍼を打とうとなったんです。『これが最後の最後だ』って言われて……」。それは賭けでもあったという。「『鍼を打っても治らなかったら、ひょっとしてピッチャーは無理かもしれないけどどうする』って先生に言われて『いや、もうどうせならやってください。今のままなら、どっちみち駄目なんだからやってください』ってお願いしました」。
その時のこともよく覚えているそうだ。「ポンポンポンって鍼を打った時にズキーンって来た。ウワーって思った瞬間に肩がフワっと緩んだんですよ。あれぇって思いましたね。1週間か2週間くらいしたら、ちょっと可動域が出てきた。『先生! 肩が上がるようになった』と言って、そこからですよね」。肩の状態はどんどん回復していったそうだ。
「次の年(プロ4年目)はキャンプの時からゆっくり、ゆっくりやった。スピードは130キロから135キロくらいしか出なかったですけど、そこからやっていくしかなかったのでね」。紀藤氏はその4年目の5月にプロ初登板を果たす。一時は引退も考えた崖っ縁から、フロリダでの鍼治療のおかげでよみがえることができたのだ。
「フロリダ教育リーグは2年連続で行っただけになりましたけど、投げられるようになりましたからね」。小守治療院の先生との出会いがなければ、フロリダ行きがなければ、プロ生活は早々に終わっていたかもしれない。「そうですよね。カープのトレーナーの先生にもいろいろしてもらったし、本当に助かりましたね」。紀藤氏にとって忘れられない日々。今も感謝の思いを忘れることはない。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)