「当たってでも出ろ」→逃げた先に“恐怖” ドブ川で水分補給…「ムチャクチャ」な高校野球

元近鉄・太田幸司氏【写真:山口真司】 
元近鉄・太田幸司氏【写真:山口真司】 

元近鉄・太田氏が忘れぬ猛練習「心で見て捕れ」

 元近鉄の太田幸司氏(野球評論家)は青森・三沢高時代に、伝説の1969年夏・甲子園決勝延長18回0-0引き分け再試合をはじめ、不動のエースとして活躍した右腕でもあるが、その根底には“根性野球”もあった。それは三沢OBで明治大卒のコーチによって叩き込まれたもの。夜のノックでは「心で見て捕れ!」、試合では腹にタオルを入れて「当たってでも出ろ」……。「漫画の世界みたいだったけど、チームは強くなりました」と話した。

 太田氏は高校1年夏の大会後、新チームになってから主戦投手になった。当初は2年生にエースがいたが、最初の練習試合で先発機会を与えられ結果を出し続けて、背番号11ながらエースのポジションをつかんだ。「野球部の田辺監督は市役所に勤めていた方で、普段は仕事が忙しくて、(1968年の2年夏に)甲子園に出るまでは、大会のちょっと前までしか来ないという感じだったんですけどね」というが、その田辺監督の「太田、投げてみろ」がすべてのきっかけになった。

 しかし、チームが甲子園に出るほど強くなっていったのは「コーチの存在があった」と太田氏は振り返る。「堤喜一郎さん。三沢OBで明治大学に行って星野仙一さんとは同級生でメチャクチャ仲が良くてね。僕が1年秋くらいからかなぁ、その堤さんが、誰かに頼まれたわけではなく、押し掛けコーチみたいな感じで来られるようになったんですよ。監督はあまり来なかったし、ある意味、チームの基盤を作ったのは堤さんと言っていいと思います」。

 現役時代は燃える男、監督時代は闘将と呼ばれた星野氏の同級生コーチに叩き込まれたのが“根性野球”だ。「明治式の練習だったんでしょうね。例えば暗くなって横の体育館の明かりだけの中、ボールに石灰をつけてノックを打つんですよ。カーンと打ったら一瞬パッと白く見えるけど、転がったらもう見えない。それでも『そんなもの、集中していたらわかる、見える、心で見ろ』って、もう漫画みたいな感じでしたけどね」と当時の様子を説明した。

「試合になったら腹にタオルを入れて『当たってでも出ろ』って。それで逃げたら怒られたりとかね。今、振り返ったら、ムチャクチャだったなぁって思うけど、堤さんが来られたのは大きかったですよ。それまでは自分たちだけでメニューを作ってやったこともありましたからね。技術がうまくなったかどうかはわかりませんけど『同じ高校生とやるのにビビったらいかん、強い名前に負けるなぁ!』とか言ってくれたりね」

水分補給のために草むらに隠した瓶「いろいろやりました」

 現在では考えられないことも、当時はいくつもあった。「練習試合が1日2試合あったら、2試合とも投げたりもした。昔は大会の準決勝、決勝をダブルヘッダーでやることもあったので、それを考えてね。実際、大会では2試合とも完投していましたよ。まぁ肩は強かったですね。2試合目の方が調子よかったとか、そんなんでしたしね」。1969年夏、松山商との伝説の延長18回0-0引き分け再試合の熱投も、そんな積み重ねがあったからできたのかもしれない。

「練習中に水も飲んだらいけない時代。よくグラウンド裏の細いドブ川のようなところで、水をこっそり飲んだりした。瓶とか缶に水を入れて裏の草むらに隠しておいて、ファウルになったらバーッと走っていって球を拾うふりして飲んだりとかね。いろいろやりましたけど、まぁ、それで結果も出ましたしね」。事の善し悪しはともかく、そんな“苦行”も乗り越えて、太田氏もナインも成長していったという。

 太田氏が高校2年になった1968年4月から青森県立大三沢高は、校名を青森県立三沢高に改称した。そして、その年の夏に甲子園出場を果たす。「ちょうど三沢になったタイミングで、うまいこと行けましたよね」。根性野球も身につけた三沢ナインはここから1968年夏、1969年春、夏と3期連続で聖地に進む。伝説の決勝戦となる最後の夏に向けて、“闘い”のドラマが繰り広げられていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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