届かぬ140キロ「お前が監督なら使うか?」 身重の妻置き海外視野も…捨てた“エゴ”

戦力外、海外挑戦への未練と葛藤
「今思うと、本当に恥ずかしい考え方をしていました」。中日、ロッテ、横浜(現DeNA)でプレーし、2009年に現役を引退した山北茂利氏は、苦笑いを浮かべながら当時を振り返った。結果が出ないことを他人のせいにしていた時期もあった左腕。プロ野球人生の引き際は、残酷な現実と向き合う厳しいものだった。
2006年にロッテから横浜に移籍し、再起をかけた。移籍1年目は28試合に登板。2008年も32試合に登板したものの防御率は8.72と振るわなかった。そしてプロ10年目の2009年、ついに1軍登板がないまま戦力外通告を受けることとなる。
それでもまだ、心には火が残っていた。トライアウトに参加し、新天地を求めた。台湾球界からの打診やメキシコでのプレーも真剣に検討し、アメリカへの挑戦を口にすることもあった。
現役続行への未練と、現実の間で葛藤していた1月のことだ。当時巨人の2軍コーチを務めていた大西崇之氏から食事に誘われた。中日時代から親交の深い大西氏は、迷う山北に静かに問いかけた。
「お前がもし監督やコーチだったら、今の自分を1軍で使うか?」
グサリときた。140キロに届かなくなった球速。客観的に自分を見つめたとき、答えは一つしかなかった。「……使えないっすよね」。その瞬間、長くまとわりついていた未練が、スッと消えた。
家族の存在も決断を後押しした。3人目の子どもを身ごもる妻を置いて海外に行くことは「自分のエゴ」ではないか。練習相手もいない2月の孤独な時間の中で葛藤し、3月中旬に引退を決意。4月に届いた台湾からのオファーも、静かに断った。
「和製ランディ」という誇りと、歩む第2の人生
「和製ランディ・ジョンソン」の“肩書き”を背負いもがき続けた。「本家のような剛速球はなかったけれど、あの名前のおかげでみなさんに覚えてもらえました。最高の野球人生でした」。
3球団を渡り歩き、通算208試合に登板した。そこで得たのは「環境のせいにするな。全部自分の責任だ」という、苦い経験から導き出した“真理”だった。
引退から15年以上が経ち、山北氏は地元・岐阜で“2つの顔”を持っている。
1つは中日ドラゴンズジュニアの監督。ロッテ時代にボビー・バレンタイン監督から「お前が必要なんだ」と真正面から言われ、学んだ“言葉の力”を子どもたちに伝えている。「当時の自分は本当に幼かったからこそ、子どもたちには『自分の責任で向き合うこと』の大切さを伝えたいんです」。
そしてもう1つの顔が、岐阜県にある「ヒマラヤスポーツ」本館の店舗スタッフだ。野球イベントだけでなく、店頭にも立ち、ミシンを使いグラブの修理まで担当する。作業場に立ちながら「結構器用なんですよ」と、はにかむ表情はは実に柔らかい。かつてプロのマウンドで、数多の強打者を見下ろしてきた191センチの視線は、いま、目の前の「誰か」のために注がれている。
(木村竜也 / Tatsuya Kimura)