不祥事に監督激怒「お前ら辞めろ」 1人残して15人退部…見舞われた緊急事態

西武、中日、ダイエーで活躍した杉本正氏【写真:山口真司】
西武、中日、ダイエーで活躍した杉本正氏【写真:山口真司】

西武、中日などでプレーした杉本氏が振り返る“思わぬ問題”

 仲間たちが、まさかの……。元西武、中日、ダイエーで活躍した左腕の杉本正氏(野球評論家)は、静岡・御殿場西高で1975年の高校1年夏から控え投手としてベンチ入りを果たした。しかし1回戦敗退。大会前には何ともショックな出来事があったという。

 小山町立小山中学3年時に、エース兼3番打者として活躍。御殿場西には野手として期待され、特待生で入学した杉本氏だが、同級生の逸材左腕が家出し、そのまま野球部を退部したことで、監督指令で投手を“継続”することになった。毎日、汗を流し「練習試合でちょっと投げた程度でしたけど、1年生の夏の大会で背番号をもらったんですよ。18番を」と、いきなりベンチ入りメンバーにも選ばれた。

 控え投手ではあるが気持ちも高ぶった。しかし、大会前の壮行会で一気に萎えてしまったという。「全校生徒の前に(ベンチ入りの)野球部員18人が並んで、一人ずつ、監督が紹介していくわけです。で、僕は『18番、杉本、1年生、左ピッチャー、どんな試合展開になっても使うことはありません』って言われたんですよ。“それだったら(ベンチに)入れるな”って思いました。だって2年生もいるわけですから。“何のために俺が入るの”ってね」と、ショックを受けたそうだ。

 この夏、御殿場西は1回戦で池新田高に1-8で敗れた。杉本氏の出番は監督の“予告通り”なかった。「コールド負けでした。試合は3年生の左ピッチャーが投げて、僕はバットボーイみたいなもんでした」。その後の新チームでも控え投手だった。「1年の秋は覚えていないなぁ。多分まだ(大会では)投げていなかったと思う。1つ上に先輩投手がいて、その人が主に投げていたんでね」。さらに一冬を越し、今度は予期せぬ事態に見舞われた。

「1年生が終わる頃に、僕らの学年で問題があったんです。内容は覚えていないですが、何か不祥事があって……。その時、野球部に同級生は16人いたんですけど、全員集められて、監督に『お前ら(野球部を)辞めたいなら、辞めろ』みたいなことを言われたんです。そしたら、僕以外、みんな、辞めたんですよ」

部室に来た監督から「お前は(野球を)続けろ」

 杉本氏は高校進学の際「何か問題を起こしたら、すぐに学校を辞めること」という条件を父親に出されていた。「何かあったら野球を辞めるイコール、学校を辞めるってなるんで……。僕もみんなと一緒に(野球部を)辞めてもいいけど、学校も辞めなきゃいけない。どうしようかなって思って部室にいたら、監督が来て『お前は(野球を)続けろ』というふうに言われて、残ることになったんです」。

 1年上の先輩と、1年下の後輩がいるとはいえ、1学年ひとりだけは異常事態。「担任の先生が野球部のコーチみたいなことをしていて、仲がよくて高校から野球を始めた子を呼び出して『お前は野球部に戻れ、来い!』と引き戻してくれた。これで2人。監督も別のクラスの2人に『帰ってこい』と声をかけて4人になった。辞めたなかには有望な選手がいたんですけど、なぜか、その4人で……」。

 1人だけ残される事態は何とか回避できたが、大幅人数減には変わらない。そんななか、2年夏の大会を迎えた。杉本氏はこの時も控え投手だったが「2年の夏は僕も投げました。先輩(投手)と半々で投げたと思います。背番号は10番か11番だったかな」。忘れられないのは、4回戦で静岡学園に0-8で負けた試合だという。「コールド負け。参考記録でノーヒット・ノーランをされたんですけど、僕が先発して4、5点取られたんじゃないかな」と唇を噛んだ。

「僕の後に先輩が投げたんですけど、もう申し訳なくて……。帰りのバスで、先輩が前にいたんですけど、言葉もかけられなかったです。それはよく覚えています」。そんな屈辱の夏を杉本氏はバネにした。わずか4人の学年が最高学年となり、中学時代と同じく「エース兼3番打者」として君臨した。投げてよし、打ってよしの二刀流。1977年の高校3年時には、さらに進化を遂げた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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