因縁の登板で浴びた“怒号” 新人に容赦ないヤジ攻勢…元中日左腕「そりゃあ怒りますよ」

杉本正氏は社会人時代に大昭和製紙でプレーした
西武、中日、ダイエーの3球団で通算13年間プレーした左腕・杉本正氏(野球評論家)は社会人野球・大昭和製紙(富士市)出身だ。1978年の社会人1年目は都市対抗野球大会での登板こそなかったものの「春先から小さな大会とかでは投げさせてもらっていた」と徐々に頭角を現していった。そんななか思い出されるのは、当初入社予定だった日本楽器(浜松市、現ヤマハ)との“遺恨戦”という。「ヤジられました」と苦笑しながら、自身の“非”も明かした。
高校(御殿場西)までは自宅から通学した杉本氏だが、大昭和製紙では寮生活。「高校を卒業して就職して『今日から行ってくるね』って家を出る時、父にいただいたお金は5000円でした。それは何か覚えていますね。ボストンバッグを持って、当時、沼津にあった大昭和の寮に向かいました。それが家を出た最初でしたね」。
入社後、すぐに大会があったという。「当然、行かなきゃいけないんですけど、みんなジャケットを着ているわけですよ。でも僕は革靴とシャツはあったけどジャケットを持っていなかったんです。そしたら先輩が貸してくれたんです。ズボンとネクタイも。それで参加しました。帰ったら『もうそれ、お前にやるよ』って言われて……」。そんな形で杉本氏の社会人生活はスタートした。
「合宿所は4月の半ばくらいに沼津から富士に移転したんですけど、その時は給料をもらっていたから生活必需品は自分で買ったと思いますけどね。1年目は基本給が6万9500円だったかな。何かいろいろ引かれて6万くらい手取りでもらえたんですけど、そこからまた1万円を天引き貯金して5万円を現金で茶封筒でいただいていました。僕はタバコを吸わないし、お酒も飲まなかったから、お金はあまり使うことがなかった。妹の学校の月謝も僕が払っていました」
1年目から登板機会は多かったという。「小さな大会とか、地区予選とか、オープン戦とかに投げさせてもらいました。中央大とのオープン戦にも投げましたね。あの頃の中大は小川淳司さん(元ヤクルト外野手)、熊野(輝光)さん(元阪急・オリックス、巨人外野手)、高木豊さん(元横浜、日本ハム内野手)に僕と同学年の尾上旭(元中日、近鉄内野手)とかがいて強かったんですけど、尾上にホームランを打たれただけで抑えたと思います」と振り返った。
“内定”蹴ったチーム相手に登板し…ひと波乱
「尾上とは後に中日で一緒になった。『俺、杉本からホームランを打って(大学)1年からレギュラーを取ったんだよ』って言うから『じゃあ、俺のおかげだな』なんて言ったりしたもんですけど、彼は(2022年に)亡くなっちゃったんですよね」としんみりと話したが、杉本氏にとっても強豪・中大戦での好投は、さらにチャンスをもらえるきっかけにもなったようで、そういう意味でも思い出深い様子だった。
そんな社会人1年目で、さらに忘れられない試合が日本楽器戦という。「都市対抗の一時予選かなんかで勝敗が関係ない試合に投げさせてもらって完投勝ちしたんです」。杉本氏は御殿場西高から当初は日本楽器に入社するつもりで練習にも参加。食事などの接待も受けていたが、その後、大昭和製紙に気持ちがかたむき、ひっくり返した経緯があり、試合ではやじられたそうだ。
「高3の夏休みに日本楽器へ行った時、帰りにグラブとスパイクをもらったんですよ。(入社を)断ったからそれも返さなければいけなかったのに、僕はそのままいただいて、大昭和に入ってからも使っていたんです。そりゃあ怒りますよね。試合中、向こうのベンチから『グラブを返せ!』『スパイクを返せ!』って言われたんです」。その件に関してはヤジられてもしかたがない状況だったが、それをも乗り越えて完投勝利をマークしたわけだ。
大昭和製紙はこの年(1978年)、6年連続で都市対抗に出場した。2回戦で敗退し、ここでは杉本氏の出番はなかったが、日本楽器戦をはじめ、他での数多くの実戦経験が、その先につながった。「まぁ、日本楽器には、同じ地区でしたし、負けたくないっていうのもありましたね」。さらに練習も積み重ね、杉本氏は、社会人2年目(1979年)にジャンプアップする。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)