ゴミ分別から人生哲学まで裏方仕事と監督の言葉が変えた意識
「記号にしか見えない」――。野球のルールすら知らない2人の女子マネジャーが、スコアブックと格闘しながらチームを支え、やがて独自の組織論にたどり着いた。東京・八王子にある実力校・八王子実践。昨年の夏、西東京大会でベスト8進出を果たしたチームに3年生の西岡凪咲さんと2年生の熊谷漣華さんがいる。米大リーグのマイナーでプレーした異色の監督から哲学的な問いを投げかけられ、先輩マネジャーが残した一言が、2人の原動力になっている。
西岡さんがマネジャーになったきっかけは意外なものだった。「OBの保護者の方から、マネジャーが足りないからやってほしいと声をかけられたんです」。小学校からダンスに打ち込んできた西岡さんにとって、野球は「おじいちゃんが好きだった」という程度の認識だった。
一方、熊谷さんは元々、高校野球のマネジャーに憧れを持っていた。入学前の制服採寸の際に野球部員とすれ違ったことがきっかけで、「入るしかない」と運命を感じ、自ら門を叩いた。
2人とも野球の経験は皆無。どちらも最初にぶつかった壁は、試合を記録するスコアブックだった。「最初は本当に難しかったです。もう記号にしか見えなくて」と西岡さんは笑う。先輩マネジャーが引退するまでのわずかな期間に必死で記号を覚え、ルールを叩き込んだ。熊谷さんも「スコアを書きながらルールを覚えていきました」と目を細めた。
苦労しながらも、2人はマネジャー活動を「楽しい」と口を揃える。特に夏の大会は格別だ。西岡さんはベンチ入りこそかなわなかったが、「スタンドも、めちゃくちゃ楽しかったです。みんなと一緒に応援歌を歌ったり」と目を輝かせる。熊谷さんも「高校野球の夏は1年に1回しかない。憧れた熱さを感じることができました」と声を弾ませた。
華やかな場面だけがマネジャーの業務ではない。部員40人以上を抱えるチームの日常は地道な作業の連続だ。「更衣室にゴミを置きっ放しにしたり、分別がめちゃくちゃだったり。そういうところはまだまだ子どもっぽいなと思います」と西岡さんは笑う。熊谷さんも「もう本当に忘れ物しないでください、って感じです」と苦笑いする。
社会に出て通用する人間に――河本ロバート監督からの問い
そんな日常に変化が生まれてきた。倉庫の掃除やバット整理、ノック時のボール渡しをした際に、選手から「やってくれたの、ありがとう」と声をかけられる機会が増えた。「本当に嬉しいし、選手たちも成長しているんだなと感じます」と2人は顔をほころばせた。
「ドジャース」と「亜大」での学びを“融合” 八王子実践・河本ロバート監督が実践する野球革命と人材育成
2人の成長を後押ししているのが、河本ロバート監督の存在だ。米国人の父と日本人の母の間に生まれた同校OBで、亜大進学後は自己最速153キロを記録。米大リーグ・ドジャースとマイナー契約を結び、4年間プレーした後、2019年から母校を率いる異色の指揮官だ。
監督との会話は野球より人生や社会に及ぶことが多い。「将来、社会に出て通用する人間になってほしい。マネジャーはそのための準備期間だ」。その言葉を胸に、2人は私生活から意識を変えた。西岡さんは一人称を「うち」から「私」に改め、LINEの返信にも「夜遅くにすみません」と気遣いを添えるようになった。
熊谷さんが特に意識するのは挨拶だ。「相手への第一印象になるし、自分から積極的に声をかけるようになりました」と顔を引き締める。ときには「結婚したら財布は夫婦で共用するか、個別にするか」と哲学的な問いかけをされることもある。
「財布はきっちり別にしたい。はっきり分けます」と即答したのは西岡さんだった。「子どもができたら生活費もかかるけど、自分の好きなものも買いたいし、男の人には飲み会だってあるじゃないですか。そういうときは言ってくれれば、って思ってます」。しっかり者らしい回答に、熊谷さんも笑って頷いた。監督との間に「壁がなくて話しやすい。答えを出すのが難しいときもあるけど、楽しいです」と2人は口を揃える。
専用グラウンドを持たないチームの現状も、監督はユーモアに変える。「お金持ちと結婚してグラウンドを建ててくれたら、君たちの銅像を建てるよ」――。そんな冗談に、2人は「お金持ちと結婚します!」と明るく返す。笑いを交えながら監督と交わすそんなやり取りもまた、毎日の活動を支える燃料になっている。こうした問いかけの積み重ねが、監督の掲げる「社会に出て通用する人間」への道につながっているのかもしれない。
恩田宣男コーチが示す手本は大学野球のマネジャー…幅広い実務を担う“監督の右腕”
こうした環境に、恩田宣男コーチの指導が加わる。「最初はこちらから言わないとなかなか動かなかった。でも、それは指導者の責任でもある」と振り返る恩田コーチが手本として示したのが、大学野球のマネジャーだ。遠征先のホテル手配から備品管理まで、大学では監督の右腕として幅広い実務を担う。「大事なのは先回り。指導者や選手の動きを読んで、先に動くことだ」――。バスの出発時間をこちらが尋ねる前に伝えに来る、そんな小さな積み重ねが「あなたたちがいなくなるとチームが回らない」と言ってもらえる存在へとつながると説いた。「今は本当によくできている」と恩田コーチは目を細める。哲学的な問いで人間力を磨くロバート監督と、大学野球の実務を基準に先回りの姿勢を育てる恩田コーチ。2人が受ける指導の厚みは、他校のマネジャーには容易には得られないものだ。
経営者、バス運転手、スカウト…多彩な肩書きの異色コーチ 八王子実践に息づく“愛情”「3年の夏は同じでない」
そんな2人の背中を押す言葉が、もう一つある。
昨年夏、神宮球場のベンチに入った先輩マネジャーから聞いた言葉が忘れられない。「神宮のベンチはふかふかだったよ」――。たったそれだけの一言が、2人の胸に火をつけた。西東京のチームが神宮球場へ進むには、勝ち上がるしかない。「あの景色を、次は自分がベンチに入ってみたい」。その先に見据えるのは甲子園だ。
記号にしか見えなかったスコアブックは、今や2人を神宮へ、甲子園へと連れていく地図になった。
【筆者プロフィール】 豊嶋 彬(とよしまあきら)1983年7月16日生まれ。フリーアナウンサー、スポーツMC。2016年から高校野球の取材活動を始め、JCOMの「夏の高校野球東西東京大会ダイジェスト」のMCを務めている。高校野球への深い造詣と柔らかな語り口を踏まえた取材・実況が評価されている。スポーツMCとしての活動のほか、テレビ番組MCなど幅広く活動中。
(豊嶋彬 / Akira Toyoshima)