“赤鬼”は日本でなぜ大爆発? 通算打率3割超え、189発の打棒を生んだ怪我の功名
メジャー時代に左足首を骨折→ヤクルト時代に左足踵を手術した際に固定器具を除去
1970年代から80年代にかけてヤクルト、近鉄でプレーし、通算189本塁打をマークしたチャーリー・マニエル氏。桁外れなパワーに加え、興奮した顔が真っ赤になることから「赤鬼」の異名をとった。メジャーでは通算4本塁打だった男は、なぜNPBで覚醒できたのか。ひとつの怪我が、好転を呼ぶ“きっかけ”だったという。
マニエル氏が日本時代の思い出を語ったのは、マリナーズなどで通算252本塁打を放った元打点王・ブレット・ブーン氏のポッドキャスト番組。メジャーデビューを果たした1969年に試合でスライディングをした際に左足首を骨折し、固定器具を入れる手術を行ったことを回顧。「ベースが緩んでいて、そのせいで足首を骨折した」と話す。
その後はメジャーとマイナーを行き来するキャリアを送り、1976年にヤクルトに移籍した。NPB1年目は84試合に出場し、打率.243、11本塁打、32打点。助っ人としては期待外れの成績に終わったが、その裏で偶然によって生まれた“転機”が訪れていた。
同年のある試合で、守備の際にフェンスのクッションに左足が引っ掛かったことが発端で負傷するアクシデントが発生。かかとを手術する羽目になったが「その際、かつて足に入れていた固定器具を医師たちが取り除いてくれ、脚の甲も再建した。おかげで更に5年間日本でプレーできた」との逸話を披露してみせた。
左足の“不安”が取り除かれた翌1977年は42本塁打、さらに1978年には39本塁打をマークした。近鉄に移籍した1979年からは2年連続で本塁打王(37本、48本)を獲得するなど大活躍。助っ人は結果次第では1年で戦力外になる可能性もあるが、まさに怪我の功名が導いた躍動だった。
「一見、不幸に見えても結局は幸運だったのかもしれない。左打者なので軸足が左脚となり、体重を乗せることでパワーを生み出して本塁打を打てた」
引退後はインディアンス(現ガーディアンズ)、フィリーズで指導者を務め、監督としてはMLB通算1000勝を達成している。日米で活躍したマニエル氏の功績は、色褪せることはない。
(Full-Count編集部)