「何を根拠に…」プロ初登板直後にフォーム変更指令 球速20キロ低下…苦しんだ5年間
立命大で活躍…1999年ドラフトでダイエーを逆指名した田中総司氏
1999年ドラフト会議でダイエー(現ソフトバンク)を逆指名して1位入団した田中総司氏。自らの経験を糧に現在は地元の兵庫・伊丹市で「たなか鍼灸接骨院」を開業し、老若男女問わずサポートしている。故障などもあり、わずか5年間に終わったプロ野球生活は苦悩の連続だったという。
立命大のエースとして3年春のリーグ戦で1試合15奪三振の快投を見せ、プロから注目を浴びた左腕は、1999年のドラフトでダイエーを逆指名。ルーキーイヤーの2000年は開幕1軍入りを果たした。しかし、プロ初登板となった4月5日の近鉄戦で2/3回を3失点と打ち込まれ、翌日には2軍落ち。同年はこの1試合登板のみで終わった。
春季キャンプから左肘の違和感を抱えていたという。だが「ある程度の痛みがあっても投げる時代。キャンプ初日からブルペン入りは決まっていたので必死でした」と振り返る。
1999年のダイエーは王政権で初の日本一となり投手力も充実。大学No.1左腕は自信を持ってプロの世界に飛び込んだが「ブルペンの隣で若田部さんの投げるボールは捕手のミットが全く動かない。その制球力に度肝を抜かれた。こんなにレベルが高いのかと」と、衝撃を受けたという。
一瞬で終わった1軍デビュー戦。失意の中、2軍に合流すると待っていたのは投球フォーム変更指令だった。2軍投手コーチから「サイドスローをやれ」と強引に勧められた。ただ、この時は「何を根拠に言っているか分からなかった。自分はスピードはないが球のキレで勝負する投手。まだプロ1年目だったので」と、従うことはなかった。