米修行でも酷評「横手投げか運転手に」 屈辱の球拾いも…数か月後の”大変身”

元中日・山本昌氏【写真:山口真司】
元中日・山本昌氏【写真:山口真司】

1988年のベロビーチキャンプではボールボーイを経験「本当に辞めたいと思った」

 流れが大きく変わったプロ5年目。50歳までプレー、通算219勝を挙げたレジェンド左腕・山本昌氏が飛躍へのきっかけをつかんだのが1988年のドジャース留学だった。行く時はショックで「行きたくない」と嘆いたが、帰る時は充実の日々で「帰りたくない」に180度変化。ドジャースのオマリー会長補佐を務めていたアイク生原氏と出会って、米国で急成長した。だが、すべて順調に進んだわけではない。最初は屈辱からのスタートだった。

 1988年、星野中日の米フロリダ州ベロビーチキャンプに山本氏も参加した。キャンプが終わってもそのまま、アメリカに残ることが決まっていたが「アピールしたら、変わるかもしれない。日本に連れて帰ってもらえるかもしれない」と考えて、気合も入れ直していたという。

 だが、甘かった。「レッドソックスとも、ツインズとも、ドジャースとも試合をしたけど、1試合も投げさせてもらえなかった。そりゃあ、その年、日本で使わないんだからそうだよね。貴重な大リーグとの試合なんだから」。

 ドジャースとのオープン戦。「近藤真一がスティーブ・サックスに先頭打者ホームランを打たれたけど、あの時、僕はボールボーイみたいなことをやっていた」と振り返る。「つらかったね。本当にやめたいと思った。英語もしゃべれないし、最初は通訳もついてくれなかったしね」。

 中日ナインが日本に戻る時はさらにわびしい気持ちになった。「今みたいにアメリカの野球の情報なんて入ってこない時代だったしね……」。それが後に「行ってよかった」に変わるわけだが……。

ド軍オーナー補佐、アイク生原さんの指導を受け急激に成長

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