無安打地獄で「もう参りそう」 心折れかけた“1打席勝負”…救ったのは「やっぱり葛西」
川又米利氏が得意とした遠藤一彦氏、北別府学氏
星野仙一氏が中日監督に復帰したのは1996年シーズン。闘将の第2次政権が始まった。元中日で野球評論家の川又米利氏は当時、プロ18年目。この年から代打オンリーで勝負することになった。「ここという時に使ってもらった」。長きバットマン生活では相性のいい投手も、悪い投手もいたが、代打時代では得意な相手投手をよく覚えているという。「向こうが僕のことを意識してくれていたと思う」。打撃不振の時にも助けられた投手が阪神にいた。
相性が良かった投手として川又氏は遠藤一彦氏(元大洋)の名前をまず挙げた。入団1年目の1979年5月12日にプロ初安打をマークした相手でもある。「ライトフェンス直撃の二塁打。あとちょっとでホームランだった。遠藤さんは当時、大洋期待の2年目の投手だったけど、僕はその年のオープン戦でも打っていた。なんか知らんけど、合うんですよ。遠藤さんが先発の時も抑えの時も打ったと思う」。
続けて口にしたのは北別府学氏(元広島)だ。「(広島捕手の)達川(光男)さんにもよく言われましたよ。『川又にはよう打たれたけんね』みたいな感じで。北別府さんは絶妙なコントロール、スライダーにしてもシュートにしてもね。でも何かこう対応できたんですよね。ホント、よくわからないんですけど、打っているイメージ。長いことやっていると、そういうピッチャーって絶対いますよ」。
一方で苦手なピッチャーもいた。「広島の左の清川(栄治、現西武2軍投手総合コーチ)なんて、駄目でしたね。右では巨人時代の木田(優夫、現日本ハム2軍監督)。合いづらいというか、打ちづらかった。球も速いし、フォークもあるし、嫌だったですね。大魔神(佐々木主浩投手、元横浜)も嫌だったけど、佐々木からは代打ホームランも打っているし、いい思い出もある。でも木田って、そんないい思い出も全くないんですよ」。
開幕から無安打が続いた1996年…初安打は好相性の阪神サブマリンから
最も忘れられない好相性の投手は阪神の葛西稔氏(現阪神スカウト)だ。「自分の中では、いいイメージしかない」という。川又氏は1996年と1997年の現役最後の2年間は星野監督の下、代打稼業となったが、いきなりヒットが出ずに苦しんだ。「1996年は開幕してから12打席くらいノーヒットだった」。その年、初安打が出たのは5月14日の阪神戦(浜松)。相手投手が葛西氏だった。
「センター前へのヒット。開幕後1か月ちょっとしてやっと出た。やっぱり葛西だったって感じでした。それまでは打席に立つのが嫌になるくらい苦しかった。もう参りそうなところで救ってくれた」。翌15日の同カード(ナゴヤ球場)では竹内昌也投手から代打ホームランを放つなど、調子を取り戻した。「その年、代打で.267。12安打くらい打ったと思う。葛西には悪いけど、浜松で彼と対戦できたのが分岐点みたいになった」。
現役ラストシーズンとなった1997年にも川又氏には葛西氏との“いい思い出”がある。6月14日の阪神戦(甲子園)。「大西(崇之、現中日1軍外野守備走塁コーチ)がスタメンで出て、2安打していたけど、相手投手が葛西になると、星野監督は大西に代えて僕を行かせた。打っているバッターへの代打。大西にしてみれば2安打しているのにってなったと思うけど、そんな中で僕はライト前ヒットを打ったんです」。
それほどまでに知られた好相性だったということ。「葛西の方が意識してくれるから、コーナー、コーナーが微妙に甘くなって、打てるボールが来たって感じだった」と言うが、まさに星野監督の期待に応える一打であり、代打を出された大西氏も納得させる一打。狙った獲物は逃さない。それは代打屋としての川又氏の真骨頂でもあった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)