「野球学校にしない」 “地域の子”たちで甲子園準優勝…老練の名将が守り抜く信条
埼玉・春日部共栄高校を率いて44年目…本多利治監督の指導理念
春夏合わせて8度の甲子園に出場した春日部共栄高校野球部は、埼玉を代表する強豪校として知られる。1980年の創立とともに着任した本多利治は、44年目を迎えた老練の名監督だ。その指導理念やコーチ術、教育者としての横顔を紹介する。(文中敬称略)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
母校の高知高で保健体育科の教師になるつもりだったが、間の悪いことに空きがなかった。日体大4年の秋、春日部市に新設される高校が野球部の監督を探していると聞き、面接に出掛けたら意表を突かれた。
「新興私学なら、学校の名前を売るために5年くらいで甲子園に行ってくれと頼んでくるもの。そう言われたら引き受けなかったが、学校側は甲子園どころか強くしてほしいとも言わなかった。これが決め手。真っ白い紙に自分で色を塗ってチームをつくれる喜びを感じた」
いきなり100人が入部してきた。本多は1975年の選抜大会に高知の主将として出場し、決勝で原辰徳や村中秀人のいた東海大相模を延長で負かし、高知県勢として初優勝。名声を触れ回ったわけでもないのに、大勢の中学生が集まった。
大半が県内から参集、それも学校周辺の地域からだった。
「埼玉で甲子園に出ていない高校は東部地区だけだから、地元の子を育てて達成したかった。今まで親を説得して誘ったのは、ひとりしかいない。基本的にスカウトはせず、自ら入部してくる選手で戦うのが僕の信条。その多くが東部の子ですよ」
エース・土肥義弘で臨んだ1993年夏の甲子園で準V
スポーツ行政の地域区分として埼玉の各市町村を東西南北に分類すると、春日部市は東部に位置する。
1988年の秋季県大会に初優勝、埼玉で戦える手応えをつかんだ。プロに進んだ城石憲之や橿渕聡らを擁し、春夏連続で甲子園に初出場した1990年秋から1991年夏のチームが最強と言う。同一チームで秋、春、夏を制した私学は春日部共栄だけ。全員埼玉の選手で、東部地区以外の主力は3人しかいなかった。
左のエース・土肥義弘で臨んだ1993年夏の甲子園では、1951年の熊谷以来、埼玉県勢として42年ぶり2度目の準優勝。創部14年目、本多のモットーを思えば礼賛すべき銀賞である。
「私生活、学校生活からプレーにつなげるのが僕の指導方針。少しくらい野球が上手でも偉くもなんともない。野球を通じて一番尊い人間性を磨くのが基本。その延長戦上に甲子園出場があればいい、という考えで44年間やり続けています」
偉ぶることなかれ、監督である前にひとりの教師であれ――。本多はこう自分に言い聞かせてきた。
東京六大学で活躍するOBは、先日のドラフト会議でソフトバンクから4位指名された明大のエース・村田賢一ら7人。受験で入学した面々だ。「野球学校にしないと決めてやってきた最終目標が、東大生を出すこと。浪人中の去年の主力が、来年合格するかもしれない。今まで何人も受験して、2点足りなかった子もいた」
高知・土佐高も文武両道を掲げ、野球部は通算12度の甲子園を経験。OBで東大野球部元監督の浜田一志は、本多のもとを訪れては「東大で野球をやらないか」と選手に声を掛けた。東大の練習にもよく参加した。
親を口説いて勧誘した唯一の選手「自宅まで押し掛けた」
現在西武所属の土肥は頭が良く、巨人の中里篤史も勉強ができ、ロッテの小林宏之は家庭教師を付けて受験した。村田は中学時代の通信簿がオール4。「特待生でもないのに、みんなうちで野球がやりたくて入ってくる。野球と勉強の両方を頑張れる子どもたちばかりで、部活を辞める生徒はいませんよ」
真っ黒い顔に獲物を狙うような鋭い眼光の本多が、満面に笑みを浮かべた。大層うれしそうだった。
親を口説いてまで勧誘した唯一の選手というのが、エースで4番の2期生・平塚克洋。明大から社会人を経て横浜など4球団でプレーし、現在は阪神のスカウト担当だ。
「すごい選手なんで誘わないと絶対後悔すると思ったから、自宅まで押し掛けたんだ。練習をボイコットするやんちゃな奴でしたが、うちに来て正解。父親が明大、平塚も明大、平塚の息子もうちでプレーして明大。3代続いたんですからね」
また、白い歯がこぼれた。
○河野正(かわの・ただし)1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部でサッカーや野球をはじめ、多くの競技を取材。運動部長、編集委員を務め、2007年からフリーランスとなり、Jリーグ浦和などサッカーを中心に活動中。新聞社時代は高校野球に長く関わり、『埼玉県高校野球史』編集にも携わった。
(河野正 / Tadashi Kawano)