「あいつがナンバーワン」 甲子園8度、好投手続出の強豪…名将が育て上げた“最高傑作”
同県の強豪監督たちも目標とする埼玉・春日部共栄高校の本多利治監督
埼玉・春日部共栄高校野球部は、発足から今年で44年目を迎えた。本多利治の卓越した指導が結実し、甲子園には春夏通算8度出場。ともに好敵手の浦和学院・森士、花咲徳栄・岩井隆ら大勢の指導者が目標にしてきた66歳の手法と哲学とは――。(文中敬称略)
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これまでプロ球界に送り込んだ13人のうち、大半の8人が投手だ。先のドラフト会議で4位指名された村田賢一(明大)がソフトバンク入りすれば、9人になる。野手出身の本多だが、「ピッチャーを育てるのは好きですよ。なにせ、いいピッチャーがいないことには勝負にならないからね」と、チームづくりの基盤を投手陣の整備に置く。
投手で初めてプロ入りしたのが、1993年夏の甲子園で準優勝した土肥義弘で、2人目が土肥と同級生の本柳和也。高卒では小林宏之が先陣を切り、2番目の中里篤史は初のドラフト1位だ。古川祐樹、大竹秀義と続き、中村勝が2人目の“ドラ1”指名。大道温貴までの8人が投手としてプロになり、明大まで主戦投手だったプロ第1号の平塚克洋は、主に外野手で活躍した。
大勢の好投手を育ててきた本多が、最高傑作と絶賛するのが中日に入団した中里だ。「誰が何と言ってもあいつがうちのナンバーワン」と言い続け、将来のプロ野球を背負う人材だと確信していた。
肘の使い方が抜群にうまく、よくしなった。「肘を壊さないよう、体づくりだけ注意してやった」と話し、入学時180センチ、60キロのか細い体型が、3年の夏には72キロに増えた。「体ができるとともに球速もアップする。そういうふうに大事に、大事に育てたんですよ。僕の仕事は体力を鍛えることだった」。
浦和学院・坂元弥太郎は同い年のライバル。2000年夏の埼玉大会決勝で投げ合い、延長10回サヨナラ負け。坂元は甲子園1回戦で19奪三振と当時の最多タイ記録をつくる。春先から決め球のスライダーが話題になっていたが、本多は中里に言った。「気にするな。お前は真っすぐで三振を取れる投手になればいいんだから」。
埼玉に来た頃は大ざっぱ…「あれじゃ甲子園では通用しない」
春日部共栄は、ち密でスキがない。愛媛とともに野球どころ四国を代表する高知でもまれ、高知高で選抜大会を制覇した本多は、埼玉にやって来た頃、四国との違いを感じた。
「昔の県営(大宮)球場が狭かったせいで、大ざっぱな野球をしていた。力のある選手が振れば(本塁打になって)勝てる風潮があった。あれじゃ甲子園では通用しない。細かさが足りず、ボール回しを見てもいい加減だと思った。うちのは機敏にバンバンやるから、真似した学校がたくさんありましたよ」
就任当初は熊谷商や上尾、川口工、所沢商といった公立勢が盟主の座を争っていた時代。それが1985年に立教、1986年に浦和学院が夏の甲子園に初登場すると、私学が勢力を拡大し寡占状態を形成していった。
春日部共栄は1993年夏に準優勝した後も、夏の甲子園に3度出向いたが、最高成績は3回戦。台頭してきた花咲徳栄が2017年夏の大会で悲願の初優勝を遂げると、2013年の選抜大会を制してはいたが、浦和学院の監督、森士は「埼玉で最初に夏の王者になることを掲げてきたので、あの優勝は衝撃的で屈辱だった」と悔しがった。本多はどうか。
「徳栄がうらやましかった? いや、どのチームでもよかった。夏にね、早く埼玉が優勝しないかと思っていたんだ。進学校を目指し、野球学校にしないと決めていたうちではしんどい。森君に言ったことがある。『選手を集めて強化できる学校が優勝しないで、いったいどこが勝つんだ』ってね。森君も(花咲徳栄の)岩井君も、僕を目標にしてきたって言うんだ。うれしいね」
現在は1年契約で監督業に専念…私学の“風潮”にはお構いなし
66歳の本多は今、授業は持たずに1年契約で監督業に専念する。今年で就任44年目。「72歳で50周年になるから、できることならそこまでやりたい。いろんな目標を持ってここまできたけど、まだたどり着いていないのが、甲子園10回出場と東大生の誕生なんだ」。
有力私学は全国から人材を集めて強化するが、本多はそんな風潮にお構いなく、野球と学業両立の哲学を貫く。「でも甲子園で勝ちたい欲は変わらないね」。勝負師の顔に戻った。
○河野正(かわの・ただし)1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部でサッカーや野球をはじめ、多くの競技を取材。運動部長、編集委員を務め、2007年からフリーランスとなり、Jリーグ浦和などサッカーを中心に活動中。新聞社時代は高校野球に長く関わり、『埼玉県高校野球史』編集にも携わった。
(河野正 / Tadashi Kawano)