社内で「野球部を守ってくれる人がいなかった」 忘れぬ休部の苦境…決意の再始動
2025年に活動再開の日産自動車野球部、伊藤監督が語る2009年の休部
2025年に活動を再開する社会人野球の日産自動車硬式野球部。活動拠点となる神奈川・横須賀市の工場敷地内にグラウンドや室内練習場の整備が進む中、社内でも様々な活動の動きがある。伊藤祐樹新監督は「ただ応援してもらうだけでなく、社員の皆さんにも参加してもらい、一緒に野球部を作り上げていきたい」と話す。そう考えるきっかけは、2009年に休部を経験したことだった。
1959年に創部。都市対抗に29度、日本選手権に16度出場している強豪だった。2008年のリーマンショックにより日本経済もマイナス成長に陥る中、経営再建の一環として2009年に活動休止となったが、日産自動車の内田誠社長が全国の拠点や工場を回って社員とディスカッションをする中、野球部の復活を望む声は常にあった。昨年の都市対抗には、トヨタ自動車、Honda、三菱自動車岡崎、SUBARUが出場。自動車メーカー各社が名を連ねた。全国的にみると企業チームは減少する中、日産は16年ぶりの活動再開を決めた。
日産で15年間プレーし、休部後は社業に専念していた伊藤監督は「車はたくさんの人々の手によって作られている。野球部は試合に勝つことを目標とするのはもちろんですが、野球部の活動を通じて、会社で働く社員の繋がりを強くしたいと思っています」と話す。
「自分が以前所属していた部署は国内営業でした。宣伝、マーケティング、Webなどのチームがあって、それぞれのチームが『販売会社の人に車を売ってもらうためにはどうしたらいいか』と常に考えていました。そういう人たちに『野球部を使って何かできないですか?』と提案しています。従業員の皆さんも含めての野球部だと思っているので、活動に参加してもらい、一緒に戦っていきたいと思っています」
社内で独立した存在「野球で勝つことが自分たちの仕事だった」
活動休止前の日産野球部は「野球部は野球部」と独立した存在で、野球で勝つことが自分たちの仕事だった。他部署の社員との接点も少なく、経営判断に関わる役職者たちと会話をする機会もほとんどなかった。「リーマンショックで経営が悪化する中、休部が決まりましたが、当時を振り返ると、野球部を守ってくれる人が会社の中にいなかったような気がします」。野球部、陸上部、卓球部の休部を決定した日産に限らず、多くの企業が歴史ある企業スポーツの休・廃部に追い込まれた。
「会社が生き残りを図る中、聖域なくコスト削減が行われました。その中で『野球部はなくてもいい』と思われたんですね。野球部を応援してくれる人たちのつながりで、会社が回ってるところがある。ひと踏ん張りしてくれている社員がたくさんいる。そういうところにベクトルが向かなくなった。『野球部は野球部』として独立していたため、いざという時、野球部を守る声は会社の決断を覆すまでに至りませんでした」
休部後は、地道に野球教室などの地域貢献を続けてきた。そして、野球を愛するたくさんの人々に支えられ、日産野球部は復活を遂げる。もう2度と活動が途切れることがないように、新生日産野球部は「会社とともに」をテーマに、新たなスタートを切る。
(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)