指揮官から「好きにせい」 “やりたくない”捕手からの解放も…阻まれた1軍の壁

1991年、中日時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】
1991年、中日時代の山崎武司氏【写真提供:産経新聞社】

山崎武司氏は捕手から4年目の秋季キャンプで外野にコンバートされた

 元中日、オリックス、楽天の山崎武司氏(野球評論家)は遅咲きの大砲だった。27年間の現役生活で通算403本塁打をマークしたが、1号は5年目の1991年。初めてシーズン本塁打数を2桁(16本塁打)に乗せたのは9年目の1995年で、10年目の1996年に39本塁打を放ちタイトルを獲得した。“未完の大器”時代が長かったが、1軍で本塁打を放つ前の1990年オフには野球以外での行動が話題を呼んだ。

 プロ3年目の1989年に1軍で20試合に出場した山崎氏だが、飛躍のきっかけとはならなかった。4年目の1990年はウエスタン・リーグで2年連続となる本塁打王と打点王の2冠になったものの、1軍では9月下旬以降の5試合出場にとどまった。本塁打と打点はゼロながら、7打数3安打と徐々に結果を出し始めたが、1軍の壁は厚かった。

 ただ、「やりたくない」と思っていた捕手業からは解放された。1990年10月7日の巨人戦(東京ドーム)では「7番・一塁」。初めて捕手以外でスタメン出場した。秋季キャンプでは外野にコンバートされた。「キャッチャーに関しては(中日監督の)星野(仙一)さんに“もうええわ、どうでもええわ、好きにせいや”みたいなことを言われたんですよ」と言う。もちろん“待っていました”の展開。喜んで外野の練習に励んだのは言うまでもない。

 5年目の1991年、山崎氏は初の開幕1軍入りを果たした。4月6日の開幕・巨人戦(東京ドーム)に代打で出場し、そのまま左翼の守備に就いた(1打数無安打1四球)。開幕3戦目の4月9日の広島戦(ナゴヤ球場)には「3番・右翼」のマーク・ライアル、「4番・一塁」の落合博満に続く「5番・左翼」でスタメン出場(3打数無安打)。「3番・右翼」で出場した5月9日の大洋戦(横浜)では左腕・田辺学投手から待望の1号をレフト場外へかっ飛ばした。

元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】
元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】

プロ初本塁打は5年目…前年オフに人命救助でリーグ表彰

「目茶苦茶いい当たりだったのは覚えていますよ」と振り返った。だが、会心の一撃も、その後が続かなかった。この年の本塁打はこの1本だけ。26試合出場で43打数6安打の打率.140、打点は2だった。「まだこの頃は1軍と2軍を行ったり来たり。1軍のピッチャーの変化球とかに、全くついていけてなかったしね。これはなかなか難しいなぁって思ってやっていましたね」。まさに苦しい時期だった。

 そんな山崎氏が野球以外で脚光を浴びたのは1990年オフ。12月19日、愛知県知多市内の実家近くでの出来事だった。「中学の時に相撲を教えてもらったり、お世話になっている方のちゃんこ(鍋)のお店に行っていた時、隣のお肉屋さんが火事になって……」。山崎氏は知人らと勇猛果敢にも火の中に飛び込んで、逃げ遅れた子どもたち5人を救助した。

 そう簡単にできることではない。当時、大いに話題になった。「野球では(スポーツ紙の)1面を取れていなかったのに、1面になったところもあったのは覚えていますけどね」と照れながら話したが、セ・リーグ会長から特別表彰され、勇気ある男として、しばらく「レスキュー」が山崎氏の代名詞になった。野球はその後も下積み期間が続いたが、バットで結果を出す前からその名を知らしめた。

 山崎氏がプロ1号を放った1991年シーズン限りで星野監督が退任した。1987年シーズンから始まった中日・星野第1次政権は5年で幕を閉じたが、“未完の大器”が完全覚醒するのは、そこからさらに5年後の1996年。星野第2次政権が始まった年だから、いかに遅咲きだったかはわかるところ。「レスキュー」と呼ばれた頃も1軍の壁に思い悩んでいた。でも、そこから通算403本塁打をマークするのだから、やはりただ者ではなかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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