“大谷翔平以来”1年春で4番の逸材 父は元巨人…指揮官絶賛の伸びしろ「誰もが認める」
花巻東・古城大翔の父は巨人コーチの茂幸氏…大谷に憧れ神奈川から花巻東へ
神奈川から岩手へ。古城大翔(ふるき・だいと)内野手が、小学生の頃に衝撃を受けた大谷翔平投手(ドジャース)の母校である花巻東(岩手)へ入学したのは今春のことだ。春先から花巻東の出世番号である「17」を背負って4番に座り、夏の甲子園でも才能の一端を見せた1年生スラッガー。来春の選抜大会出場の可能性がある今、その実力を磨き続けている。
横浜市で野球に夢中になっていた古城は、2017年の9歳頃にプロ野球で輝き続ける「二刀流」に目を丸くした。「大谷さんがメジャーに行く前ですね。投打どちらもできる姿がマンガの世界みたいで、純粋に凄いなって……。第一印象が強烈で、高校は花巻東1本に決めていました」。
翌年から海を渡ってメジャーで活躍する大谷への憧れは加速した。軟式野球チームの「山田バッファローズ」でプレーしていた野球少年は、中学では硬式の「都筑中央ボーイズ」に所属して3年夏に全国大会に出場。「4番・三塁」としてベスト16に貢献するなど、高校進学に向けて着実に成長を続けた。
憧れていた花巻東の野球部を率いるのは佐々木洋監督。岩手の県立高校から国士館大へ進み、のちに花巻東を強豪に押し上げた指導者だが、佐々木監督と古城の父親である茂幸氏は同学年で大学時代のチームメートだった。来季から巨人1軍内野守備コーチとなる“父親”との思い出を、佐々木監督が回想する。
「僕は田舎から出ていって、しかも県立高校の出身。東北人すら少なかった大学で、入学当初は不安が多くて心細くて……。そんな時、同級生で最初に声をかけてくれたのが古城のお父さんだったんです」
1997年ドラフト5位でプロ入りした茂幸氏は日本ハム、巨人で計16年間プレー。2019年から巨人のコーチを務めているが、佐々木監督にとっての茂幸氏は大学時代から変わらぬ「やさしく、みんなに愛される」旧友でもある。父の人柄は、息子の翔大へ受け継がれていると佐々木監督は言う。「左打ちだった父親のプレースタイルとはまったく違いますが、息子は性格的なところではよく似ていますね。そこが彼のこれから一番の伸びしろだと思います」。
夏の甲子園に1年ながら「4番・三塁」で出場…初戦敗退も2安打をマーク
謙虚で「野球の取り組む姿勢がいい」と言い、「そこは、かつて花巻東の背番号17をつけた菊池雄星投手や大谷翔平投手と同じ」と古城を称える佐々木監督は、1年春からスタメンで起用した。高校進学に際してもそうだが、入学したばかりの古城が公式戦でプレーするのは、“父親”の存在と関係ない。実力で手にしたスタメン。1年春に4番に座ったのは、花巻東にとって大谷以来のことだった。佐々木監督は言う。「誰もが認める実力。そして、1年春から納得できる活躍をしてくれた」。
古城自身は入学当初を「1年春の花北地区予選から4番を打たせてもらい、責任感を持たないといけないと思った。背番号17は、嬉しさと同時に『自分でいいのかな?』という思いでしたが、とにかく『チームのために』という思いで打席に立ちました」と振り返る。
同年夏には「4番・三塁」で甲子園デビューを果たす。滋賀学園との初戦(2回戦)で2安打を放ったが、チームは敗退。「さらに4番の自覚が芽生えた」という古城は、新チームとなった秋でもその座を譲らず、岩手大会準優勝に貢献。4強に進出した東北大会では、秋田商との1回戦で初回に豪快な3ランを左翼スタンドへ放った。「夏の甲子園での2安打はともに単打。振り負けた印象だったので、秋は『振り抜く』ことをテーマにしました。秋田商戦は、その成果が出た試合だった」。花巻東入学時の体重は94キロ。現在は89キロまで絞り込み、打撃にキレが出てきたことを実感する。
「春から夏、さらに秋にかけてスイングスピードが上がる中で、左投手のインコースの球など、速球に対してもしっかりと対応できるようになってきました」
古城は、もともと左利きだ。ペンや箸を持つ手、ボールを蹴るのは「左」で、なぜか投打だけが「右」なのだという。「打撃中に左手が強いと感じることはあって、インコースの球などに対して左手一本でいっちゃうことがある」。
高校で迎えるオフシーズン。自身初めての“岩手の冬”を前に、古城は「打撃で求められているのは長打だと思っている」と断言する。「小さい頃は父親みたいな小技を活かすような打ち方を教わったりした時期もありましたが、父親からも『高校では長打力を伸ばさないといけない』と言われてきましたし、今はスケールの大きいバッターを求めています」。
意識しているのは花巻東のOBで、現在は米国のスタンフォード大で野球と向き合う佐々木麟太郎内野手の豪快なスイングだという。来春の全国舞台も見据えながら、古城のバットを握る両手は熱を帯びている。