“ナックル姫”の新たな挑戦 女子野球に抱く“危機感”と期待…33歳が七夕に込めた思い

神奈川の女子硬式野球部は高校1校、大学・社会人はゼロ
女子野球の“パイオニア”が、また新たな一歩を踏み出した。かつて“ナックル姫”として日本、米独立リーグで活躍した吉田えりさんは、昨年11月に7年間所属したエイジェック女子硬式野球部を退部。その後は地元・神奈川県で指導者としての道を歩み始めている。そして電撃発表から9か月、33歳となった吉田さんが挑むのは、社会人女子野球チームの立ち上げだ。
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「七夕の日に発表したのは、願いを込めたかったから」
汗をぬぐい、トレーニングウエア姿で現れた吉田さんは、変わらぬ笑顔で「こんにちは!」と声を弾ませた。ユニホームは昨年に一度封印し、現在は兄・勇介さんが運営する野球専門の室内練習場「tsuzuki BASE」で、小中学生の指導に尽力している。「現役時代と変わらないくらい忙しいですね」と笑うが、野球に動かされる情熱は、今もなお消えていない。
神奈川に戻った理由は明確だった。「地元に恩返しをしたい」。その手段として選んだのが、女子野球選手に“プレーできる場”を提供することだった。
神奈川といえば、プロはDeNA、高校野球も全国屈指の激戦区だが、女子野球の環境は乏しい。小中学では女子の競技人口はかなり多い一方で、高校になると激減。女子硬式野球部は横浜隼人の1校のみで、大学・社会人はゼロ――吉田さんは、目を背けられない現実に直面した。
「ないなら、作ればいい」。その一念で動いた。周囲の協力にも恵まれ、7月7日、社会人女子硬式野球チーム「tsuzuki BASE」を発足。発表はインスタグラムで行った。「でも、環境はまだ全然整っていないんですよ」と笑う吉田さんの顔は、むしろ晴れやかだった。
最大の課題は練習環境だ。「神奈川はグラウンドの確保が本当に大変。小学生のチームですら、毎月どこで練習できるか、宝くじみたいなもの。親御さんの協力でやっと、という状況です」。練習場が確保できない中、吉田さんは「環境を整えてから」ではなく「やりながら整える」道を選んだ。「グラウンドや運営、スポンサー探しもこれから。でも、待っていたら一生できない。だからまず“箱”を作ることが大事だと思いました」。
強くてもダメ…“監督・吉田えり”が目指す野球の形
“箱”はできたが、肝心の選手はまだゼロ。8月以降にトライアウトを複数回行い、徐々にチームを形にしていく。対象は高卒以上で年齢制限なし。「野球が本当に好きな人、女子野球を盛り上げたい人なら誰でも歓迎です」と“参加条件”を語る一方で、テストのハードルは決して低くはない。最初から十分な人員が揃うかは不透明だが、目指すは来年からの本格的なリーグ戦参入だ。
一方でチームに決まっていることがある。それは“監督・吉田えり”だ。エイジェック在籍時の2018年から2年間、選手兼監督として指揮を執ったが、今回はひとまず監督業に集中する。また、監督として采配を振るうだけでなく、広報や運営、人数次第では選手としてもプレーする覚悟だ。「人が足りなければ、私もグラウンドに立ちます」と笑う表情の奥に、現役時代と変わらぬ闘志がのぞく。さらに、ヘッドコーチには侍ジャパン女子代表で正捕手を務めた船越千紘さんを迎え、“女子野球レジェンド”のタッグが誕生する。
社会人チームとはいえ、選手はプロではない。働きながら週末に練習や試合に臨む。「『tsuzuki BASE』で働きながら野球を続けられる環境を作ります。営業職を中心に、仕事と野球を両立できる仕組みを考えています」。大学生には学業との両立も支援する方針だ。
高校女子野球は東京ドームや甲子園での大会が定着し、イチロー氏率いる「イチロー選抜KOBE CHIBEN」との交流戦も話題を集めている。一方で、「大学以降は半数以上が野球を辞めてしまう。社会人で続けられる人は本当に少ないんです」。吉田さんは高校卒業後の現状を憂う。
だからこそ、自らが旗を振り、女子野球を“ライフスポーツ”として根付かせたい。「高校までは大きな舞台があるのに、その先がない。社会人でも輝ける場所を作りたい。野球を辞めなくていい環境を用意して、続けたい子たちの背中を押したい」。その強い思いを胸に、吉田さんはチームに命を吹き込む。
果たして、“監督・吉田えり”が目指す野球とは――腕を組みながら少考し、吉田さんは言葉を紡いだ。
「女子野球だけを見たら(競技の)レベルは上がっているし、人口も増えています。でも、女子が野球をするっていうのは少し『珍しい』と世間に見られているように思います。ただ、強いだけじゃなくて、好きになってくれる『ファン』になってもらう。お客さんが増えてもっと見てもらえるようになれば、競技としても女子野球の魅力もどんどん上がっていくようになると思うんです。そういう野球を目指したいですね」。
七夕の日に掲げた願い――日本プロ野球史上初の女性プレーヤーとなり、メジャーの舞台を夢見た“ナックル姫”の挑戦は、新章に突入した。
(新井裕貴 / Yuki Arai)