初の甲子園で鳴った肘「ブチッと」 道路ガタガタ、鳴物なし…異様な聖地で悟った終わり

元ヤクルト・藤井秀悟氏が語る高校時代
NPB4球団で通算83勝を挙げた藤井秀悟氏は2001年には14勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得するなど、15年間のプロ人生を歩んだ。引退後は打撃投手、広報、さらに独立リーグ球団のGMや監督など、幅広く活動してきた。そんな藤井氏のルーツは野球好きの父親がきっかけだった。
小学校2年生から野球を始めたが、当時は母親が運転する車のヘッドライトに照らされて、近所の山頂まで走ることが日課になっていたという。中学生になると、硬式のボーイズリーグを選択。週末は自転車で1時間以上かけて通った。高校は勉強と野球の両立を考えていた。「野球の強い学校に行きたいとは思っていなかったので、強豪校からのお誘いはお断りしていました」。しかし、藤井氏の噂を聞きつけた今治西高の監督からの勧誘を受ける。県立の野球が強い進学校。「進学校だから、大学も行けるかな」と、入学を決めた。
同校は自宅からかなり遠く、部活をしながら毎日通うことは困難だった。寮もないため、高校生にして独り暮らし。「1~2年生の時は一軒家みたいな平屋に住んでいました。3年生の時は、部屋が空いたからおいでと言われて、キャプテンの家に下宿していました」。中学では硬式に慣れていたため、1年夏からベンチ入り。「上下関係も、あくまで進学校での上下関係というか。野球に関しては、入部してびっくりするようなことはなかったです」。他方で勉強には苦労した。「周りのレベルが高すぎて、授業について行けなかったです。今思えば僕も頑張って勉強していればよかったんでしょうけど、『わからない』からスタートしたので、出遅れてしまいました」。
野球では1年生からめきめきと頭角を表した。短いイニングから登板機会を得て好投を重ね、「徐々に試合のイニングが伸びていきました」。そして夏の県大会でも登板を重ね、決勝戦では先発を任された。チームは序盤にリードしたが、藤井氏が逆転を許し、敗退。「疲れが残っていて、痛み止めを飲んで投げた覚えがあります。上級生、特に3年生は最後だったので、甲子園に行けなかったのは申し訳ない気持ちでした」。
初の甲子園は震災直後「道路もガタガタだったり…」
エースとして臨んだ2年の夏は準々決勝の試合直前に足首を捻挫し、そのまま登板するも松山商高に敗れた。しかし2年の秋に四国大会で優勝。翌春の選抜で自身初の甲子園出場を果たした。同年は今からちょうど30年前。1月に阪神淡路大震災があった。「現地ではブルーシートの屋根が多かったり、道路もガタガタだったり。応援も鳴り物ではなく手拍子でした」。そんな中、今治西は藤井氏の好投もあり1、2回戦を1点差で勝利。迎えた3回戦は神港学園と対戦した。地元兵庫の高校である。
「7回くらいから違和感があって、9回の初球に『ブチッ』という音が聞こえた気がしました。この打者に4連続ボールで交代しました。その時点で勝っていましたが、2番手の投手も甲子園初登板ですし、逆転されてしまって」。ところがその裏、2死三塁で4番の藤井氏に打席が回り、三遊間を破る同点打を放つ。延長戦となり最後はサヨナラ勝ち。続く準決勝に藤井氏は当然、投げることはできず、チームも銚子商業に敗れた。
ヒジはすぐに大学病院で診てもらい、「今でいう靱帯損傷だったと思う」という状態。夏の大会には間に合わなかった。県大会準決勝で松山商高に敗れ、藤井氏の高校野球は終わった。その後、大学でもプロでも悩まされた肘の故障。藤井氏の野球のキャリアは、肘痛との闘いの歴史でもあった。
(伊村弘真 / Hiromasa Imura)