監督から「パンツ一丁になれ」 プロが新聞紙で打撃練習…まさかの指令で夜間特訓

近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】
近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】

近鉄で活躍した羽田耕一氏

 山あり、谷あり――。元近鉄内野手で通算225本塁打の羽田耕一氏はプロ5年目の1976年、6本塁打に終わった。プロ2年目(1973年)に三塁レギュラーの座をつかんで12本。3年目(1974年)が14本、4年目(1975年)が15本と2桁本塁打を続けていたのが、ストップした。「ちょっと甘えがあったと思います」。気持ちを引き締め直して6年目(1977年)は22本と巻き返したが、7年目(1978年)は9本。実はこれには守備が影響していたという。

 羽田氏は兵庫・三田学園から1971年ドラフト4位で近鉄に入団し、高卒2年目途中から1軍に定着した。長打力が魅力で3年目には4番も経験するなど、クリーンアップを任された。順調にプロ生活を歩んでいたが、5年目につまずいた。3年目、4年目と2年連続で開幕戦に「3番・三塁」で起用されたが、5年目はスタメン落ち。三塁にはは吹石徳一内野手が起用された。その後、スタメンの座を取り返したが、打順は7番、8番、9番が中心だった。

 125試合、打率.242、6本塁打、39打点がこの年の成績。本塁打数の激減が目立った。これについて羽田氏は「この年は、悪かったんですよ。自分自身の考え方がすごく甘くてね。それが一番でしたね。それまでずっと試合に出してもらっていたことで、その甘えがあった。まぁ遊びすぎもあったと思いますね」と反省する。若くしてレギュラーになったことで、どこかが緩んでいたということだろう。それがすべて結果に跳ね返ってきたというわけだ。

 その自覚もあったから6年目(1977年)に向けて「気持ちを切り替えました。(5年目の)シーズンオフにね。誰かに何か言われたわけじゃなくて、自分で考えてやりました」という。まだ20代前半、もう一度やり直した。西本幸雄監督にも高知・宿毛キャンプで再び鍛えあげられた。「食事が終わったら西本さんが部屋にきて『パンツ一丁になれ』『新聞紙を持って来い』って。その時は梨田(昌崇捕手)と同じ部屋だったかな。そこで新聞紙を丸めたヤツを打つんですよ」。

 トス役が西本監督。夜の特訓だった。裸になって打つことによって「自分の体の使い方とかがわかるんですよ。どれくらいの時間、やっていたかは覚えていないですけど、もう汗びっしょりになりました」。西本式の練習は常に全力だから、1スイングとて気が抜けない。「キャンプ中、手は(皮が剥けて)ズルズルです。最初は痛いけど、途中から痛みもなくなるんですけどね」。それこそ甘い気持ちも吹っ飛んだことだろう。

誰にも言えなかった右肘痛「言ったらおしまい」

 6年目の1977年、羽田氏は4月2日のロッテとの開幕戦(宮城)に6番三塁で起用され、ロッテ・村田兆治投手から1号本塁打をかっ飛ばした。これが復活ののろし。そのまま打撃好調を維持し、3番、5番、さらには4番も任される時期もあるなど、130試合、打率.265、75打点、本塁打は22発と増産した。しかし、再び上昇気流には乗りきれなかった。7年目の1978年は9本塁打と、一桁アーチに逆戻りだ。

 今度は何があったのか。羽田氏は「誰にも言わなかったんですけど、右肘の調子がおかしくなったんです。バッティングの時に痛めたと思う。特に投げる方に影響が出て……。でも痛いとは言えなかった。言ったらもうおしまいと思った。落とされるというか、自分に負けるというか……」。この年も130試合に出場したが、それは痛みをこらえながら、悟られないようにプレーした結果でもあった。

 ただし、三塁守備では20失策で前年9失策から大幅増。羽田氏は「打撃の調子が悪くなったのは守備もあるんですよ。よくエラーでしてスタンドからは野次られました。昔は野次もすごかったですからね。相手と闘うよりスタンドと闘っているような感じの時もありました。ビジターでいくと物も飛んできたり。そんなのがあると(打撃)成績もよくないんですよ。たぶん、僕の場合、エラーが少ない年の方がよく打っていると思いますよ」。

 この頃の羽田氏の成績は特に山あり、谷ありで試練の時期だったといっていい。1978年は近鉄も後期優勝に王手をかけながら、阪急に逆転されてV逸。チーム的にも悔しい年だった。そして、それもバネにして巻き返した。バファローズは1979年、1980年とパ・リーグを連覇、羽田氏は1980年にキャリアハイの30本塁打をマークする。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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