試合前に激痛「グチャって音がした」 負傷も治療せず…今も治らぬ古傷が秘めた“誇り”

元近鉄・羽田耕一氏を襲った両膝痛「おそらく靭帯が切れていた」
ついに体が……。元近鉄内野手の羽田耕一氏は現役晩年、両膝痛に苦しんだ。「(1986年のプロ)15年目からはもう……」とむなしそうに話す。「オープン戦でやってしまったんです。ちょっと寒かったので、膝をグルグルまわしていたら、グチャって音がしてね」。尋常ではない状況だった。そんな大怪我に見舞われても、すぐに試合に出ていたそうだが、さすがに以前と同じ動きはできなくなったという。
羽田氏は1971年ドラフト4位で兵庫・三田学園から近鉄入り。高卒2年目の1973年途中から三塁レギュラーの座をつかみ、以来、近鉄の主力として活躍してきた。その間には怪我もあったが、それを怪我と思わせぬくらいの不屈の精神でプレーを優先。早くから悩まされていた右肘痛も、手術に踏み切ったのは「14年目(1985年)のオフだったかな」と言い、そこまで耐え抜いていた。
1985年の羽田氏の成績は、114試合に出場して、打率.266、18本塁打、62打点。8月23日の阪急戦(ナゴヤ球場)では、山沖之彦投手から史上47人目の通算200号を達成するなど、コンスタントに活躍した。この年も近鉄期待の若手・金村義明内野手に三塁レギュラーの座を譲らなかったが、それも右肘痛を抱えながらのことだった。その上で発症したのが両膝痛だ。
「オープン戦の試合前にやってしまって……。音がしたんですよ。その時はもう歩けなかったので、トレーナーを呼んで、そのまま病院に行って、痛み止めの注射をしたんだったかな。その時に膝も手術すればよかったのかもしれないけど、何かよく分からなかったんですよ。しばらくしたら痛みもなくなったしね」。その後、戦線復帰したそうだが、当然ながら怪我の影響はあった。
「守っていてもね、一歩目が出ないんですよ。足がガクッとなってね。そんなことは言えないから黙ってやってはいましたけど、今までできていたことができないんですよ。おそらく靱帯が切れていたはずですわ。横の動きとかも全然駄目でね。痛みがなくなってからは走ってもいましたけど、もう100%の力では走れなかったですね。肘も膝も、だましだましです。本来は半年、今だったらたぶん、1年は(休まないと)駄目だったんじゃないですかね」
レギュラーを外れても常に全力「もうボロボロでした」
靱帯が切れていると感じていながら、大した治療もせずにプレーしていたことに、羽田氏は「今じゃ考えられないですよね」と何とも言えない表情で話す。結果的には、この怪我が響いて、成績も下降線をたどっていった。だましだましも限界だった。15年目(1986年)は90試合、打率.219、8本塁打、34打点。金村の成長もあり、この年から控えに回った。「たまにDH(でスタメン)があったけど、ほとんどピンチヒッターという感じでしたね」。
もちろん、その状況でも、やれることはやった。6月29日のロッテ戦(金沢)では荘勝雄投手から代打逆転満塁本塁打(シーズン2号)と派手な一発で存在感を示したし、金村がサイクル安打を達成した7月17日の阪急戦(西宮)でも負けじと3号本塁打をかっ飛ばした。どんなに苦しくても常に全力。近鉄のために身を粉にした。
しかしながら、そこからの再浮上は、もはや難しかった。16年目(1987年)は74試合、打率.211、4本塁打、17打点とさらに数字を落とした。「もうボロボロでした。昔は打てたのに、肘を手術してからは肘を畳んで打つこともできなくて、だからインサイドがめちゃくちゃ厳しくて……」。歯がゆかったし、悔しかったことだろう。怪我を押して無理を重ねたことが正解だったのか、考える部分もあったはずだ。
現役生活はプロ18年目の1989年までで、通算1504安打の羽田氏は「1200(安打)くらいの時には、このまま普通にやっていけば、2000本くらいいけるんじゃないかと思っていたんですけどね」とも話す。そういう点でも悪化した右肘痛と、突然やってきた両膝痛は大誤算だった。「膝はね、今も靱帯が切れたままだと思います」。羽田氏はそう言って、ともに闘ってきた自身の膝に手をやった。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)