篠塚和典氏が明かす”真実” 伊藤智仁氏を打ち砕いた「伝説のサヨナラ本塁打」
1993年のサヨナラ弾を本人が回顧「何かの巡り合わせだった」
読売巨人軍史上屈指の好打者として、絶大な人気を誇った篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。1975年のドラフト1位で銚子商から入団し、1994年限りで現役を引退するまで通算1696安打を記録。名球会入りはならなかったものの、その圧倒的な打撃技術の高さ、そして、華麗な守備で現役時代には多くの名シーンを生み出した。
Full-Countでは、天才打者が現役時代を振り返る連載「篠塚和典、あの時」を掲載中。第3回は、現在も野球ファンに語り継がれている名場面、元ヤクルト・伊藤智仁氏(BCリーグ富山監督)から土壇場で放った「サヨナラ本塁打」。この試合、巨人相手にセ・リーグタイ記録の16三振を奪っていた驚異のルーキー右腕を”天国から地獄”へと突き落とした一発は、どのように生まれたのか。
1993年6月9日、石川県立野球場で行われた一戦。篠塚氏はスタメンを外れていた。高速スライダーを武器に、球界の盟主から三振の山を築くルーキー右腕をベンチから見て、「実際にバッターボックスに入ってみないと分からないので、『なんでみんな当たらないのかな』というのはあった」という。
「みんな、スライダーが『消える』って言うから。消えるというのは、目切りが早すぎるんじゃないか、と。力みが早すぎるんじゃないかというのは感じましたね」
篠塚氏は0-0のまま迎えた9回表の途中、投手交代に伴って二塁の守備から出場。8回終了時点で伊藤氏の奪三振数はセ・リーグ記録にあと「1」と迫る「15」まで伸び、チーム内に不穏な空気も生まれていた。
「ベンチで話はしないけど(記録については)分かってはいました。地方球場はベンチと後ろの距離が近いから、テレビ局も本当に監督から3メートルくらいしか離れていない。ベンチにモニターの声も入ってくるし、数字も入ってきました。
(チームとして)焦りはありましたね。ただ、負けていなかった。0-0でいってたというのは1つの救いだったかもしれません。何とか勝てばいいという思いはみんなあったから。あれが0-3、0-4でバッタバッタ三振を取られていたら、新記録を達成されていたかもしれない。私の出番もなかったでしょう。あの場面であそこ(二塁)に入ってなかったかもしれない。だから、あそこに入ったのは何かの巡り合わせだったと思います」