伝説の「10・19川崎球場」もう一方の主役、有藤氏が語った「あの日」【前編】

「10.19」は今もなお記憶に深く刻まれている(写真はイメージ)【写真:Getty Images】
「10.19」は今もなお記憶に深く刻まれている(写真はイメージ)【写真:Getty Images】

リー退団、落合トレード…過渡期を迎え士気が下がったチーム状況

 野球人の情が創出したストーリーだった。1988年10月19日、川崎球場。あの時「球史に残るヒール」と言われたロッテオリオンズには、人間臭さがあった。主役として語られる近鉄サイドからではなく、敵役となった敵将・有藤通世が語った「あの日」。

「こういうと語弊があるかもしれなけど、正直な話、勝っても負けても、ロッテにとっては関係ない試合だったんですよ。順位も決まっていましたからね」

 長い月日が経っても、いまだに記憶が色あせずに甦る1日。それが「10・19川崎決戦」だ。

 シーズン最終試合のダブルヘッダー第2試合、近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)はロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)と引き分けてシーズン優勝を逃した。30年目となる2018年10月19日には当時を偲び、川崎球場跡地(現富士通スタジアム川崎)にファンが集まり記念イベントも開催されたほどだ。

 80年代はリーグ優勝6回、日本一5回という、まさに西武ライオンズ(現埼玉西武)の黄金時代。毎年のように「どこが西武を止めるのか?」がパ・リーグの大きな命題だった。そんな中、個性派集団、近鉄の躍進はファンから大きな支持を集めた。両チーム関係者のモチベーションの違いは明白で、試合前は「まるで他人事のようだった」と当時のロッテ監督、有藤氏は振り返った。

 80年代のロッテは、Aクラス4回、うち2位が3回の成績を収めており、そこまで悲観する時期でもなかった。そこから長い暗黒期が始まってしまうとは、誰も想像すらしていなかっただろう(05年にクライマックスシリーズで年間1位になるまで、95年の2位を除き全ての年でBクラス)。87年、優勝を期待され監督就任したのが、引退直後の生え抜きスター、有藤だった。

 しかし、チームを支えた大砲レロン・リーの退団、落合博満のトレードと時期が重なり打線が弱体化。有藤監督時代の3年間は万年Bクラス争いをすることとなり、チーム全体の士気が下がっていたのは否定できない。

劣悪な川崎球場の環境、汚いロッカー、カビの生えた用具…

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