意外に多い投手から打者転向組…川上、柴田、石井琢ら史上に残る強打者誕生
日本ハムの白村が、今春から野手への転向を発表
日本ハムの白村明弘が、投手から野手への転向を発表した。2014年に投手として1軍デビューした白村は、翌年には中継ぎとして50試合に登板している。驚きのニュースとなったが、球史を紐解けば、投手から野手への転向は決して珍しくない。
プロ野球で活躍するほどの選手であれば、アマチュア時代に多くは「投手で4番」を経験している。アマ時代は投手だが、野手としてプロ入りした選手も珍しくない。また、大谷翔平のように「二刀流」で活躍した選手も、阪神の藤村冨美雄など昭和の時代には何人かいた。そういう例を除き、投手専業から野手に転向した事例をいくつか挙げよう。
昭和時代の代表格といえば、西沢道夫だろう。高等小学校から、1937年に15歳で名古屋(現中日)に入団。182センチの長身を生かしてエースとして活躍した。1940年には20勝を挙げるが、1946年に一塁手に転向。1952年に首位打者と打点王を獲得するなど、中軸打者として活躍した。投手として60勝、打者として1717安打を記録し、1977年には殿堂入りしている。
「打撃の神様」川上哲治も、投手から野手への転向例だ。1938年に熊本県立工業から巨人に入団。戦前は左腕投手だったが通算11勝止まり。スタルヒンなどの陰に隠れて二線級だったが、打撃の腕を買われて1939年から内野手登録に変更され、1942年に一塁手に完全転向した。1956年に史上初の2000本安打をマークするなど、巨人草創期の大打者として君臨。投手として11勝、打者として2351安打。1965年に殿堂入りした。
松田清も投手として巨人に入団。1951年には23勝を挙げ、新人王を獲得した。この年、セ・リーグ記録の19連勝を挙げるが以後は振るわず。1956年に国鉄に移籍後、野手に転向。外野手として1961年までプレーした。投手として39勝、打者として355安打を放っている。
今年、野球殿堂入りした権藤博は、デビューした1961年にいきなり35勝して沢村賞と新人王に輝いた。「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」と呼ばれるほど頻繁に起用され、翌年も30勝をたが以後は成績が急落。1965年頃から内野手に転向。投手として82勝、打者として214安打している。