大阪→鳥取→茨城 家族全員で乗り越えた困難 ドラフト候補右腕が語る強い絆
日大三で甲子園に出場 JX-ENEOSから補強で都市対抗野球に出場する大場遼太郎投手
今秋のドラフト候補・JX-ENEOSの投手で、三菱日立パワーシステムズの補強選手として7月13日から始まる都市対抗野球(東京ドーム)に出場する大場遼太郎投手がFull-Countのインタビューに応じた。日大三(東京)で甲子園に出場し、首都大学リーグ・筑波大で1年生からリーグ戦で登板。150キロ超えの直球が売りの右腕は家族との絆がプレーの原動力となっていた。
――社会人2年目になり、チーム内の立ち位置はどのように変化していますか?
「周りの方からの“信頼”されている、というか…2年目になって変わった気がします。スタッフ、選手からも『エース』というワードを聞くようになりました。自分も責任感を持って、取り組んでいきたいなと思っています」
――エースとして、どのような投球を心掛けたいですか?
「カットボールに自信あります。今年、シュートを投げ始めたので投球の幅が広がったのかなと思います。ツーシームもあるので、打者に的を絞らせないようにしたいなと思います」
――直球も150キロを超えてきていますが、速球に自信は持てるようになりましたか?
「ストレートの質というのは変わってきたと思います。自分は169センチと体格がそんなに大きくないので、大学の時に球速よりも、キレが一番重要だと学びました。最速は151キロですが、スピードは追い求めてはいません。求めてしまうとフォームを崩してしまい、キレがなくなってしまうので」
――スピードを追い求めたくなりませんか?
「(150キロなど)球速表示されると周りは『オーッ』となりますが、僕はまだプロではないので。プロになったら、観客を沸かすことは大事ですけど、バッターを打ち取るためには、どれだけ打者の手元で速く見せられるか、手元で強い球を投げられるかが大事だと思うので、そこを追い求めてやっていかないといけません」
――周囲は都市対抗、その後のプロでの活躍を期待しているのではないでしょうか?
「自分のためというのもありますが、僕は家族のためにがんばりたいなと思うんです」。
――その理由は?
「関西で生まれて育ったのですが、小学校6年生の時に一番下の弟(大場は2人の弟と妹1人の4人きょうだい)が、僕の目の前で交通事故に遭ってしまいました。寝たきりになってしまい、リハビリのために引っ越しをしなくてはならなかったんです。鳥取のワールドウイングです。そこで弟はリハビリに通う事になりました」
――初動負荷のトレーニングやコンディショニング維持の目的で多くのプロスポーツ選手が利用する施設として有名ですね。
「はい。自分もリハビリだけでなく野球も教えてもらいました」
――弟さんはその後?
「リハビリの成果があり、今は日常生活に支障なく、大学に通えるようになりました」
――一度、関西にまた戻り、高校は日大三で寮生活。2度の甲子園(2年夏・3年夏)に出場しました。筑波大時代は実家から通っていたそうですが、この時も家族全員で?
「はい、弟(次男)が茨城の高校に進むことになったため、(三男のこともあったので)今度は全員で茨城に転居しました。父親は子供たちのそばにいるため、場所が変わるたびに仕事を何度も変えてくれました」
――家族がどんな時も一緒に力になってくれているんですね
「そんな中で野球をやらせてもらったので、プロに行って家族に恩返しをしないといけないという思いがあるんです。リハビリを頑張った一番下の弟だけでなく、親も頑張ったんじゃないかと。ここまで来られたのも親のおかげです」
――大学時代では1年生から首都大学リーグで投げていました。筑波大を選んだのは?
「1年生から試合に投げられることがレベルアップにつながると思っていました。大学によっては3年生、4年生にならないとなかなか投げらないところもあったので。あとは試合に出られないと野球をやってて楽しくないですから。試合に出て成長したかったです」
――大学で印象に残っている対戦打者は?
「東海大の田中俊太選手、大城卓三選手(ともに巨人)ですね。バッティングすごかったです」
――プロに入りたいと思ったのはいつ頃ですか?
「特に思い始めたのは大学4年の時です。春が終わってフォームを少し変えたんです。前につっこみがちだったので、右足に体重を感じてから投げるようにして、できるだけ前でリリースをするようにしました。そうしたら、球質が変わって、秋に結果が出ました。ベストナインも取れました」
――さらに成長するために選んだ社会人。プロへの思いはさらに強く?
「やっぱり、意識は確実にしてしまいますね。まずは会社の人に恩返しをしてからです。ここで結果残して、プロにいって活躍する。それが今の僕には必要なのかなと思います」