洗礼、思い出のラーメン、川崎球場… 大洋一筋14年の山下大輔が見たホエールズ

かつて大洋で不動の遊撃手として活躍した山下大輔氏【写真:本人提供】
かつて大洋で不動の遊撃手として活躍した山下大輔氏【写真:本人提供】

慶応のプリンスを襲ったプロの洗礼とは? スポーツ紙は「虚弱児」の大見出し

 横浜DeNAベイスターズの前身にあたる大洋ホエールズ(1950~52、55~92=78年以降は横浜大洋ホエールズと呼称)は、約40年間の歴史で優勝は60年のたった1度。しかし、弱かったけれど独特の存在感を放っていた“鯨軍団”を懐かしむファンは、今も多い。かつて在籍したスター選手たちに“俺たちのホエールズ”について語っていただき、その魅力に迫る。“慶応のプリンス”と呼ばれたスター選手で、73年のドラフト会議で1位指名され鳴り物入りで入団した山下大輔さん(前編)をお送りする。

 74年の山下さんの入団が、ホエールズにとって一大事だったことを示すエピソードがある。この年からチームのユニホームが、オレンジと緑のツートーンカラーという、当時としては極めて斬新な配色に変わった。地元・神奈川を走る湘南電車のボディーカラーに合わせたといわれる一方、山下さんの入団を喜んだ中部謙吉オーナー(当時)が、山下さんの出身地・静岡の名産であるミカン(オレンジ)とお茶(緑)にちなんだとの説もある。

「その説は、入団当時もメディアから聞いたことがあります。光栄な話ですが、真相は僕にもわからないです。それまでのイメージを一新するような派手なユニホームで、外国人選手のシピンが着るとカッコよかったけれど、最初、他の選手はみんな恥ずかしがっていましたよ」と振り返る。

 山下さんが慶大の卒業試験を終え、当時のキャンプ地の静岡市に入ったのは2月14日。翌15日、チームは休日だったが、山下さん1人と首脳陣でランニング、フリー打撃、ノックなどの練習が行われた。今思えば、メディアに対するアピールという一面もあったのだろう。

 ところがその夜、山下さんは風邪で発熱。キャンプインしたのもつかの間、同じ静岡県の清水市の実家で数日間療養することになった。

「スポーツ紙の担当記者の方々が実家まで見舞いに来て、『焦ることはない』とか優しい言葉をかけて下さいましたが、翌日の紙面を見て、びっくりしましたよ。『虚弱児・山下』と大見出しが躍ってました。これがプロの洗礼かと思いました」と苦笑い。

 入団から4年間、本拠地とした川崎球場は、狭い、汚い、巨人戦以外は客席がガラガラと、評判が悪かった。「ファウルボールが、球場外周の駐車場に止めた選手の車を直撃することもありました。いま思えば雑然としたロケーションでしたね。観客は、秋風が吹くころになると数十人。グラウンドから数えることができました。スタンドの最上段から隣の競輪場をのぞいている人もいました」

 それでも、山下さんにとってはプロ入りして最初の本拠地。「“出発点”ですから、思い出深いですよ。試合開始前、球場敷地内にあるラーメン店からおばちゃんが醤油ラーメンをロッカールームまで届けてくれた。あれはおいしかったな。あの味はファンの方々とも共通の思い出になっています」

大洋一筋通算14年の現役生活で、優勝は1度も経験できなかった

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