故・山本功児氏に導かれた野球人生 ロッテ福浦「天国で見守って欲しい」
いつも側には山本氏の姿があった―福浦が胸に刻む恩師との思い出
その光景は今も目に焼き付いている。初めての一軍昇格が決まった時。朝一番の飛行機で二軍の遠征先の秋田から羽田空港に移動することになった。ホテルのチェックアウトを済ませ荷物を抱え、出発をしようとすると、ロビーに二軍監督の姿があった。
「頑張ってこいよ」
力強く肩を叩かれ、若者はタクシーに乗った。手を振り、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。あれから月日は流れた。当時、二軍監督を務めた山本功児氏は2016年4月23日、64歳でこの世を去った。初の一軍に、ほとんど寝ることも出来ずに出発をした福浦和也内野手はあの日から1912本のヒットを放っていた。
「思い出はありすぎるなあ。初めて一軍に行く時にわざわざ朝早くからロビーで待って見送ってくれたこと。よく怒られたし、打撃でも守備でもいろいろと指導をしてもらった。なによりも投手から野手への転向を勧めてくれたのが山本さん。今の自分があるのはあの人のおかげ。恩人だよね」
ロッテ浦和球場のロッカールーム。福浦は誰に話しかけるわけでもなく、つぶやいた。
いろいろな思い出の残るその場所で、遠い昔を振り返った。1年目のこと。二軍キャンプが終わり、浦和球場に戻った時、当時は二軍打撃コーチをしていた山本氏に声をかけられた。「打撃の才能がある。野手をしないか」。最初は冗談だと想い、愛想笑いでごまかしていた。だが、目が合うたびに声を掛けられ、本気だと知った。「オレはピッチャーをやりたかったから、断り続けていたよ」。しかし、最後はその熱意に押された。練習の合間の休憩時間に声を掛けられ、試しにと打撃ケージ内で打った。それをじっと観察をしていた二軍首脳陣は決断を下した。福浦和也は投手から内野手となった。プロ一年目のオールスター休み明けから野手としての日々が始まった。