勝利数史上7位、阪急ブレーブスの名将・上田利治氏が死去 その偉大な功績
1975年から日本シリーズ3連覇、78年には79分間の中断となる猛抗議も
7月2日、阪急ブレーブスなどの監督を務めた上田利治氏の逝去が明らかになった。享年80歳。
上田氏は1937年1月生まれ。長嶋茂雄、野村克也らの1学年下。徳島県海部郡宍喰町(現海陽町)出身で、海南高校では、甲子園には出場できなかったが、強打の捕手として活躍。関西大学に進み、村山実とバッテリーを組み、2年生時に全日本大学選手権を制した。
卒業後は広島カープに入団。1年目は正捕手・田中尊の79試合に次ぐ65試合に出場したが、オフに右肩を故障。以後、出場試合数が減ったが、首脳陣は上田氏の卓越した頭脳を評価し、1962年、引退と同時に25歳で2軍コーチになた。
さらに1971年、阪急ブレーブスのヘッドコーチになる。当時の阪急は長池徳二、山田久志、福本豊、加藤秀司らドラフト入団組を中心として強豪チームとなっていたが、上田ヘッドコーチは作戦面、用兵面でチームを取り仕切る。
そして、1974年、西本幸雄監督の退任に伴い、監督に昇格。37歳の若さで監督になった上田氏は、強烈なリーダーシップでチームを引っ張った西本監督とは対照的に、選手とのコミュニケーションを大事にし、「兄貴分」的な存在としてチームを引っ張った。
在任2年目からリーグは4連覇、日本シリーズも3連覇するが、4連覇がかかった1978年のヤクルトとの日本シリーズでは、大杉勝男の本塁打性の打球をめぐる判定で、上田監督が審判団に激しく抗議。コミッショナーが乗り出す騒ぎとなり、最終的には再開されたが、79分もの中断となった。この間、テレビは中継を継続していたが、視聴率は日本シリーズ史上最高の45.6%を記録している。上田氏は日本シリーズの進行を混乱させた責任を取って監督を退任した。
陽気なキャラクターでも知られた上田監督
その後、解説者として活躍するが、1981年に監督に復帰。1988年、阪急からオリックスに球団名が変わってからも監督を続けた。
オリックス監督を1990年限りで退任したのちは、再び解説者として活躍したが、1995年からは日本ハムの監督を務める。日本ハムでは落合博満を中軸に据え、小笠原道大を抜擢するなど、戦力強化に努めるがリーグ優勝はならなかった。
監督としては、20年で1322勝1136敗116分、勝率.538。リーグ優勝は5回、日本一は3回、Aクラスは14回に及ぶ。監督勝利数は史上7位、リーグ優勝回数は9位タイ、日本一回数は5位タイ。2003年には競技者表彰で野球殿堂入りしている。
選手としては実績がなかったが、指導者としては卓越した能力を示した。春季キャンプでは拡声器を手に、一つ一つのプレーに「ええで、ええで」と声をかけるなど、陽気なキャラクターでも知られた。
昭和の野球界で一時代を築いた名将がまた一人鬼籍に入った。
(広尾晃 / Koh Hiroo)