後に知った恩師の涙 日産野球部休部から再出発した左腕の「第2の野球人生」
ようやく立てた東京ドームのマウンド、そして訪れた試練
「夜の7時頃に言いに行ったんですけど、日付が変わるまで説教されました。『3年間育ててきたつもりなのに、お前から辞めるというのはどういうことだ。あと1年やれ。それでダメだったらクビにしてやる。その代わり、お前がダメだったら、俺もクビだ。一緒にもう1年頑張ろう』。そう言ってくれました」
秋葉は翌年のシーズンを「最後の1年」と決め、あらゆることに挑戦した。
「休みの日もトレーニングをして、メンタルトレーニングも導入しました。自分の足りないことは何かを具体的に考え、いろいろなことを試しました」
4年目の2008年、予選を野上亮磨(現西武)とともに投げ、神奈川第2代表の座を掴んだ。そして、遠かった東京ドームのマウンドに立つ日が訪れた。
「試合自体は打たれて、初戦で負けたんですけど、それよりも『やっとここに来た』という思いが強かったですね」
憧れの舞台に立つことができ、野球が楽しいと思えるようになった矢先に、新たな試練が訪れた。2009年2月、不景気のあおりを受け、野球部の年内での休部が決まったのだ。
「2月のキャンプの期間が縮小されたりしていたので、なんとなく察してはいました。『ついに来たか』という感じでした」
日産自動車野球部として最後の年、都市対抗はベスト4。そして、日本選手権もベスト4と健闘し、創部50年の歴史に幕を閉じた。
「日本選手権の京セラドームのマウンドで、ショートと牽制のサイン交換をしたとき、『もうこの人と野球をやるのは最後なんだ。このメンバーと野球をやるのは最後なんだ』って思ったのをよく覚えています。準決勝で負けて宿舎に帰ってからしばらくは放心状態で、ユニフォームが脱げなかったですね」