戦力外後は寝床も定まらない毎日… 元中日ドラ2右腕の波乱万丈の人生
21歳の若さで職を失うが…「心のどこかで安心している自分も」
ブルペン捕手、首脳陣の顔色を伺いながらボールを投げ続けた結果、ある日、突然ボールが投げられなくなった。イップスだった。投手として投げられないほど辛いことはない。何度投げてもボールはホームプレートの5メートル手前でワンバウンド。「これはダメだなと。もう練習できない、そこから投げることから逃げてしまった」。精神的にも追い込まれ、結果を残せないままプロ4年目のオフに戦力外通告を受けた。
高校を卒業してわずか4年。21歳の若さでクビとなったが「心のどこかで安心している自分もいましたね。もう投げなくていいって」と振り返る。「でも自分は甘かったし、わがままだった。イップスになって投手としては終わり。それぐらい追い込まれていたのかな」。
トライアウトにも参加したが獲得する球団は現れず、その後は地元の兵庫・尼崎に戻ることになった。右も左も分からないまま社会に投げ出された青年は辛い現実を知ることになる。当時は今よりもNPBが選手のセカンドキャリアについて活発に動いていなかった時代。高卒の21歳の青年には働く場所はなく、元プロ野球選手の肩書だけが一人歩きした。
「まず、働くためにどうしたらいいかもわからない。若かったし、変なプライドもあった。もうそこからはその日暮らしですよ」
「一番、精神的に楽だったのは土木関係の仕事をしている時かな。(プロ野球選手の)看板で人を見ない人だったし。普通に接してくれました」
バーテンダー、土木作業員、解体業…1日1日を生きていくため、泥にまみれ、汗にまみれた。引退してから3年間は寝床すら定まらない毎日だったという。だが、そんな状況になっても野球だけは続けていた。休みの日になれば、仲間と草野球を行い、純粋に野球を楽しむ日々を過ごした。