ライオンズのレジェンド・中西太 3冠王に何度も肉薄した伝説の強打者を振り返る
多くの球団で打撃コーチを務め若松、宮本、岩村、掛布らを一流打者に育てた
1962年にプレイングマネージャーに就任するがこの時期から西鉄ライオンズは資金不足も明らかになる。そんな中で中西は1963年にはリーグ優勝。1966、67年と2位になるなど奮闘する。しかし、1969年、西鉄ライオンズの選手を中心に、野球賭博、八百長事件「プロ野球黒い霧事件」が勃発。中西兼任監督は引責辞任を余儀なくされる。この時に、現役も引退。これほどの大選手でありながら、引退試合もセレモニーも何もなかった。
通算成績は
1388試合 4116打数 1262安打 244本塁打 785打点 142盗塁 打率.307
首位打者2回、本塁打王5回、打点王3回。新人王、MVP1回、ベストナイン7回
規定打席に到達したのはデビューから7年目まで。以後の11年間は規定打席未達。このため、2000本安打にも1000打点にも遠く及ばなかった。しかし、昭和を代表する大打者として1999年に殿堂入りしている。引退後は日本ハム、阪神の監督を務めた。また多くの球団で打撃コーチも務めた。打撃指導には定評があり、ヤクルトの若松勉、宮本慎也、岩村明憲、阪神の掛布雅之などを一流の打者に育て上げた。
福岡を本拠地とする西鉄ライオンズは、太平洋、クラウンライターと親会社が変わったのちに、1979年に埼玉に移転。この時にはファンの反対運動が巻き起こり「甦れ俺の西鉄ライオンズ」というレコードまで発売された。この楽曲では高倉、豊田、大下、中西、関口、和田と西鉄全盛期の打線がそのまま歌詞に盛り込まれている。西鉄ファンの願いもむなしく、ライオンズは埼玉に移転した。
あれから40年、「甦れ俺の西鉄ライオンズ」の1番の歌詞に唄われた選手たちのうち、存命者は中西太ただ一人になった。しかし、ライオンズの栄光の歴史は、今も九州のファンに語り継がれている。ライオンズの埼玉移転40年、中西の現役引退50年の今年、メットライフドームで行われるセレモニーは、ライオンズのレジェンド中西太と触れ合える貴重な機会になるだろう。
(広尾晃 / Koh Hiroo)