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ライオンズのレジェンド・中西太 3冠王に何度も肉薄した伝説の強打者を振り返る

埼玉西武ライオンズは、4月2日の本拠地開幕戦に、ライオンズOBの中西太氏が始球式を行うと発表した。中西太がライオンズのユニフォームを着ていたのは、今からちょうど半世紀前の1969年までだ。この選手の雄姿を実際に見た記憶がある人は、おおむね60歳以上になっている。しかし、中西は昭和中期のプロ野球を語る上で欠かせない大選手だった。

4月2日に始球式を務める予定の中西太氏【写真提供:埼玉西武ライオンズ】
4月2日に始球式を務める予定の中西太氏【写真提供:埼玉西武ライオンズ】

4月2日の本拠地開幕戦で始球式を行う中西太氏

 埼玉西武ライオンズは、4月2日の本拠地開幕戦に、ライオンズOBの中西太氏が始球式を行うと発表した。中西太がライオンズのユニフォームを着ていたのは、今からちょうど半世紀前の1969年までだ。この選手の雄姿を実際に見た記憶がある人は、おおむね60歳以上になっている。しかし、中西は昭和中期のプロ野球を語る上で欠かせない大選手だった。

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 中西太は1933年4月11日香川県生まれ。まもなく86歳になる。長嶋茂雄、野村克也より2学年上、同学年には金田正一や吉田義男がいる。香川県の名門、高松一高時代は強打の三塁手として甲子園で活躍。卒業後は郷土の大先輩である三原脩が監督を務める西鉄ライオンズに入団した。

 174センチ94キロの巨体から「怪童」と名付けられた中西は、入団1年目の1952年にいきなり正三塁手に抜擢され12本塁打、65打点、打率.281で新人王。翌年には36本塁打86打点で2冠王。スターダムにのし上がる。1年遅れで西鉄に入団した豊田泰光、戦後のプロ野球の大スター大下弘らと強力な打線を組み、1954年に球団を初優勝に導く。

 西鉄は1956年には大エース稲尾和久が入団し、史上に残るライオンズ黄金時代を築き上げた。中西はこの年、三原脩監督の娘と結婚している。当時の中西は巨体に似合わず俊敏な守備、走塁でもならしたオールラウンドプレーヤーだった。そして三冠王に何度も肉薄している。

1953年 36本塁打(1位)86打点(1位)打率.314(2位)
1955年 35本塁打(1位)98打点(2位)打率.332(1位)
1956年 29本塁打(1位)95打点(2位)打率.325(2位)
1957年 24本塁打(3位)100打点(1位)打率.317(2位)
1958年 23本塁打(1位)84打点(2位)打率.314(1位)

 特に1955年は打点が毎日の山内和弘と1点差、1958年も大毎の葛城隆雄と1点差だった。

 日本の野球ファンが「3冠王」を意識したのは、中西太がきっかけだった。1956年にヤンキースのミッキー・マントルが9年ぶりに3冠王になったこともあり、日本の野球雑誌は「戦後初の3冠王は誰か?」という特集を何度も組んだが、「中西太が取るのは時間の問題だ」という声が大きかった。

 残念ながら中西はあと一歩及ばず、戦後初の三冠王には1965年、南海の野村克也が輝くことになる。しかし、1950年代を通じて、中西太がリーグ最強打者だったことは誰しもが認めるところだ。

 1959年から成績は急落する。左手首を負傷し、これがもとで腱鞘炎になってバットを満足に振ることができなくなったのだ。それでも調子が良い時は好打を放ったが、常時出場がかなわなくなり、1959年からは規定打席に達しなくなる。

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