82歳で死去した元阪神バッキー氏 日本で花開き、通算100勝をマーク

“日本式”に順応、強い探求心で「一人前」の投手に成長

 米国でプレーしていた当時、バッキーが四球を多く出したのは、その変則的な投球にも原因があった。サイドやスリークオーターなど投げ方が変わる上に、不規則な変化をするナックルを投げていた。これを捕手がしっかり捕球できなかったのだ。しかし阪神で相棒となった辻恭彦は、突き指をしながらもバッキーのナックルを捕球し、好投を引き出した。

 当時のプロ野球は遠征もキャンプも日本旅館。畳の間だった。外国人も特別扱いはなかったが、バッキーはこれにも順応した。長身のバッキーが、寸足らずの浴衣を羽織って長いスネを出してくつろぐ写真が当時の野球雑誌に載っている。

 バッキーは「背水の陣」で日本にやってきた。当時の梶岡忠義投手コーチの指導を熱心に受けたほか、「針の穴を通す」と言われたエース、小山正明の投球を食い入るように見つめた。

 こうしてバッキーは日本で「一人前の投手」になり、1964年には29勝9敗、防御率1.89。最多勝、防御率のタイトルを獲得し、外国人として初の沢村賞を受賞した。この年東京オリオンズに移籍した小山の穴を埋めて、村山実とともにダブルエースとして活躍し、チームのリーグ優勝に貢献した。翌65年6月28日の巨人戦ではノーヒットノーランを達成している。

 バッキーは1968年9月18日の巨人戦での乱闘騒ぎで、右手の親指を骨折。この負傷で実質的に選手生命を絶たれた。このシーンはテレビで生中継されており、大きな反響を呼んだ。翌69年は近鉄に移籍するものの再起ならず。NPB通算100勝でキャリアを終えた。これは、昨年10月に亡くなったジョー・スタンカとともに米国出身の投手としてはNPB最多勝だ。

 NPB通算成績は251試合に登板し、100勝80敗。1596回2/3を投げて防御率2.34だった。

 今年9月13日、バッキー、スタンカの記録にあと2勝に迫っていた阪神のメッセンジャーが引退を表明した。その直後のバッキーの訃報である。バッキーは阪神時代を「人生最良のときだった」と述懐している。退団後も、バッキーは不思議な縁で阪神と結ばれていたのだろう。

(広尾晃 / Koh Hiroo)

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