なぜ暴力がなくならない? 元球児が描いた「野球と暴力」で伝えたい思い
「親子であっても暴力はダメ。ここからスタートしましょう、という話です」
では、暴力をなくすには、何が一番大切なのだろうか。それはまず、指導者、選手、家族らが「甲子園に出ることが全てではない」と理解することにあるのかもしれない。
「僕の故郷の愛媛では約60校あるうちの1校しか甲子園に出られないわけです。これは難しい。もちろん、高校野球をやっている以上は、大きな目標として甲子園出場は目指してほしい。でも、それ以外に個人的な目標として、入学から部活を引退するまでの2年4か月で野球がどれだけ上手くなったか、ということを考えるのは大事だと思います。試合は勝つ時もあれば負ける時もある。最後に負けて終わっても、毎日練習を重ねる中で、入学した時よりも成長した、上手くなったという手応えが掴めれば、燃え尽きずに野球を続けてくれると思うので。私は高校時代、甲子園なんか夢のまた夢でしたが、東京六大学でプレーすることを目標に練習していました。高校で野球が終わりというわけではありません」
元永氏は「甲子園が必要以上に大きくなりすぎたのは事実」としながらも、決して「甲子園」を否定する立場ではない。「プロ野球や大学野球を含めた野球人気を下支えしているのが、甲子園であることは間違いないと思いますし、地方から都会へ出てきた人たちがアイデンティティを感じる大会だからこそ、あれだけ盛り上がるんでしょう」。ただ、それが全てだと考える風潮に疑問を投げかけている。
著書の中で元永氏が伝えたいことはシンプルかつ明確だ。
「当たり前のことですけど、暴力はダメっていうことです。『そうは言っても……』という例外はありません。愛のムチとか、愛情があればとか、バレなきゃいいとか、選手のことを思ってとか、そういう例外はないんだ、と。もしかしたら、平成の前半までは例外はあったかもしれませんが、もう令和ですから。親子であっても暴力はダメ。ここからスタートしましょう、という話です。
もし指導者で暴力しか引き出しがないのだとしたら、違う引き出しをつくることを考えましょうということ。志を持って野球の指導者になった人の引き出しに暴力しかないっていうことはないと私は信じています。もちろん、何の原因で暴力を使うことになったかも考えなければいけない。ただ、やっぱり暴力はダメです」
近い将来、高校野球を語る時に「暴力」という言葉が登場しない日が来ること、暴力が過去の遺物となる日が来ることを願いたい。
(Full-Count編集部)