米国と比べて日本でスイッチヒッターが少ない理由は? 目から鱗の両打ちの歴史
ドジャースの戦法から俊足の柴田勲をスイッチ転向させた川上哲治監督
MLBではスイッチヒッターは全く珍しくはない存在だが、NPBではそれほど多くはない。NPB初のスイッチヒッターはハワイ出身の日系2世、堀尾文人。東京巨人軍創設に参加し、プロ野球が始まってからは阪急、阪神でプレーした。ただし、堀尾は阪急入団以降はほとんど左打席に立ったといわれる。
日本にスイッチヒッターの存在を知らしめたのは、巨人V9時代の切り込み隊長として有名な柴田勲だ。柴田は法政二高時代、エースとして夏春連覇を達成。争奪戦の果てに巨人に入団したが、投手としては通用せず外野手に転向した。当時の川上哲治監督はMLBロサンゼルス・ドジャースの戦法を学んでいたが、ドジャースの1番打者モーリー・ウィルスがスイッチヒッターだったことから、足の速い柴田を両打ちに転向させることを決断。牧野茂コーチの指導で左右両打席で打てるようになった柴田はリードオフマンとして売り出された。右打席のほうが長打が多かったため中軸を打った1967~68年は右打席で打ったが、1969年からは再び両打ちに戻し、巨人選手としては4人目の2000本安打を達成した(通算2018安打)。
広島、ロッテ、阪神で俊足の遊撃手として活躍した高橋慶彦も入団時は投手だったが、1975年、野手転向とともにスイッチヒッターに転向。1979年にはNPB記録の33試合連続安打を記録した。高橋慶彦の成功に気をよくした当時の広島・古葉竹識監督は1978年には山崎隆造、1985年には正田耕三をスイッチヒッターに転向させ、ともに一流の打者に育て上げた。
外国人打者には巨人のレジ―・スミス、西武のオレステス・デストラーデ、日本ハム、楽天、オリックスのフェルナンド・セギノールといったスイッチヒッターの強打者がいたが、日本人では松永浩美が両打ちの長距離打者だといえるだろう。通算203本塁打。阪急、阪神、ダイエーで活躍し、1試合左右打席本塁打を6回記録している。この記録はのちにセギノールに更新された。
NPBでスイッチヒッターとして最も多くの安打を打ったのが松井稼頭央だ。通算2090安打、本塁打は松永に次ぐ201本塁打。MLBでは左打席で打率.267、右打席では.269を記録している。日本人のスイッチヒッターで2000本安打以上を放ったのは松井稼、柴田の2人のみ。松永浩美は1920安打だった。
現役では16人のスイッチヒッターがいる。西武の金子侑司と川野涼多、楽天の田中和基、ロッテの加藤翔平と三家和真、日本ハムの杉谷拳士と育成の宮田輝星。巨人の若林晃弘、メルセデス、サンチェス。DeNAの三嶋一輝と育成のデラロサ、阪神の植田海、広島の上本崇司、中日の藤井淳志とアルモンテ。サンチェスは2020年2月の時点では右打ちだったが、両打ちに登録しなおした。ただし、スイッチヒッター登録でなくても左右打席で打つことは可能だ。
NPBでスイッチヒッターが少ないのは、高校野球以下のレベルで両打ちを推奨する指導者がほとんどいないことが大きいだろう。現ロッテの福田秀平は多摩大聖ヶ丘高校時代にスイッチヒッターとして活躍したが、こうした例は極めて少ない。対照的にMLBでは、高校生から両打ちの打者は珍しくない。
スイッチヒッターは、野球の勝負を複雑にし、より面白いものにする。その優位性を活かす選手がもっと増えても良いのではないだろうか。
(広尾晃 / Koh Hiroo)