パ創設初年度に起きた「放棄試合」とは? 鶴岡監督が納得できなかった際どい判定
鶴岡監督は選手として兼任監督期間で打点王を1回、MVPを3回獲得
通常、監督と審判であれば後者の方がグラウンド内でのプレーを近くで見ることができる。ただ、監督が選手としてプレーに参加していたとなれば、より詳細な部分まで見えていた可能性は高い。こうした部分も、猛抗議につながった要因と言えるかもしれない。
直近では2014年と2015年の谷繁元信氏(中日)が該当するとはいえ、平成で選手兼任監督を務めたのは2人のみ。加えて、4番スタメンとして出場したとなれば現在ではかなり珍しいケースと言えるだろう。ちなみに、鶴岡監督は選手として兼任監督期間で打点王を1回、MVPを3回獲得している。現在と環境の違いはあるとはいえ、プレーと采配の双方でチームを牽引していたと言えるだろう。
第4回まではパシフィック・リーグの創設とその初年度の試合について辿ってきた。続く第5回では「1950年の日刊スポーツ」そのものに焦点を変え、70年前の新聞紙面上の特徴と、現在の紙面との違いについてそれぞれを比較していきたい。プロ野球の歴史とともに、それを伝えるスポーツメディアはどのように変化してきたのだろうか。
なお、野球殿堂博物館では、9月8日~12月20日の期間、特集展示「鶴岡一人と南海ホークス」を開催する。この記事に登場した、鶴岡氏の選手・監督としての功績を振り返り、鶴岡氏の旧蔵品や、当時の選手たちに関する資料を紹介する内容なので、ぜひご覧いただきたい。
(「パ・リーグ インサイト」吉田貴)
(記事提供:パ・リーグ インサイト)