戦友奪った震災から10年「“まだ”でも“もう”でもない」 由規が寄せた2600文字【#あれから私は】
目の当たりにした被災地の惨状「やっていていいのかな、野球を」
震災の日のことは、今でもよく覚えています。横浜スタジアムでのオープン戦で、登板機会はなかったのでベンチ裏で待機していました。携帯電話は繋がらなかったので、確か球場にある固定電話で何回かかけて、やっと繋がって。その時間はすごく怖かった。
オープン戦は中止になって、ヤクルトの選手寮がある戸田(埼玉)に、先輩の増渕竜義さんの車に乗せてもらって一緒に向かったんですけど、8~9時間くらいかかりました。最初は大きな地震が来たという情報だけだったけど、次第に状況が分かった時に初めて「やばい」って感じたんです。
心理状況も落ち着かない中で練習試合が始まり、集中できていなかった。当時はまだ21歳で、今思うとまだ「野球が仕事」っていう感覚がありませんでした。今だったらその感覚はあるんですが、当時は「やっていていいのかな、野球を」という感覚でした。
気がつけばどんどん日が過ぎ、開幕を迎えていました。予定されていた開幕戦とは場所も相手も違いました。4月に2、3試合投げ、やっと集中できるようにはなりましたが、実家に帰れるような状況でもなくて。交流戦で仙台で投げた時にようやく帰ることができて、被災地の状況を初めて目の前で見て衝撃を受けました。その時も「野球やっている場合じゃないよな」っていう思いは正直ありました。それでも、僕らはやらなければいけない。待っていてくれる人もいる。仙台育英の先輩のご遺族も見に来てくれていました。そこで初めて僕らの使命というか、野球をやんなきゃいけない、いいプレーを見せなきゃいけないと思いました。
その年は5月までに5勝を挙げ、仙台開催のオールスターにもファン投票1位で選んでいただきました。すごくありがたかったんですが、オールスター前に怪我をしてしまった。でも、1位で選ばれているし、何とか出たい。言ってみれば強行で出場し、故障からの復帰戦でした。今でも忘れられないオールスターです。