津波に飲まれた校舎は震災遺構に 「あづまっぺ」から再スタートした気仙沼向洋野球部【#あれから私は】
2010年宮城大会は準優勝、その翌年に悲劇が…
中学時代から体育教員を目指していた川村氏も進学校に進むつもりでいたが、小野寺氏らが気仙沼水産から日体大に進んでいることを知り、進路を決めた。一浪し、一般受験で日体大に合格。3年からバッテリーコーチとなり、のちにロッテの守護神として活躍する同級生の小林雅英氏(社会人野球エイジェックコーチ)の状態をチェックするのが役割だった。あの日の夕方。浮遊物が漂う海に囲まれた屋上で川村氏は携帯電話の着信に気づいた。「最初につながった電話が小林雅英なんです」。
川村氏は09年から母校を率い、その夏に宮城大会で6年ぶりの4強入り。準々決勝は0-2から9回に同点に追いつき、延長10回サヨナラ勝ちだった。翌10年は初戦で秋季県大会優勝の古川学園を破ると、準決勝では名門・東北を6-5で下し、初の決勝進出を果たした。仙台育英との決勝は竜巻警報が発令され、雷雨で2度も中断。1-28で夢敗れた。
「ベスト4に入った時は(小野寺)三男先生が育てた子たちを早くに負けさせるわけにはいかないと思っていました。先輩からいただいたバトンをつなぐことができて嬉しかったですね」。“夏の気水(気仙沼水産)”の伝統をつなぎ、4強、準優勝ときた。さあ、目指すものはあと1つ。そんな時に発生した「3・11」。凄まじい揺れは津波を引き起こした。
海からバックネットまで約200メートル。さっきまで打撃練習し、自身も青春を燃やしたグラウンドに「重低音を響かせながら」(川村氏)海水は入ってきた。二波、三波……。上がる水位。「これは現実なんだろうか」と、その光景を屋上から見つめるしかなかった。巨大な物体が迫り、「あれがぶつかったら、うちの学校、もつのかよ」と発した記憶がある。それは「冷凍工場の激突跡」として南校舎に爪痕を残している。
その頃、小野寺氏は勤務する本吉響にいた。気仙沼向洋との距離は13キロほど。校舎を点検するなどした後、車のカーナビでテレビをつけると津波の映像が飛び込んできた。だが、学校は海から2キロ以上離れ、高台にある。この辺りは大丈夫だと思っていたが、校舎の2階から「下まで来ている!」と聞こえた。
「嘘だべ!?」。確認すると、学校の側を流れる津谷川から水が溢れていた。家族と電話がつながらない中、小野寺氏にとって初めて通じた電話が川村氏だった。「どごにいだの?」と聞くと、「屋上です」。高校球児として白球を追い、長年、監督もしたグラウンドが津波に飲まれていることを告げられた。