「やりがいはある、でも…」運送業者となった交流戦初代“首位打者”が届けたいもの

自分が指導者になったら「イップスは治せる」

 同じ内野手では守備の名手・進藤達哉氏(現DeNA編成)、三拍子揃った同じ左打者、石井琢朗(現巨人コーチ)がいた。他にも好選手が揃っていた。

「進藤さんは守備だけでなく、状況に応じたバッティングができる。1軍で同じ姓の石井(琢)さんは自分の目標でもありました。近づきたいなとの思いでやっていましたね」

 打撃を売りにプロの門を叩いた。高校時代は感じていなかったが、2人を見ていたら守備への自信は無くなっていった。レベルが違いすぎた。そして、イップスになってしまった。ボールを投げる際に力の加減がわからなくなった。

 ファーム暮らしが続いた2年目、3年目。当時、2軍監督だった日野茂氏が指導してくれた恩義は忘れない。日々のアドバイスで克服することができた。

「(リリースの時に)小指を上にした方がいいとか、暴投してもいいから思い切り投げろ、とかそういう言葉をもらいました。だんだん、相手が捕りやすいボールになっていく。今、自分が指導者になることができたら、イップスは治せると思います。軟式の監督やっている時も克服した選手がいましたね」

 2002年オフの西武へのトレードが大きかった。広角に打てる左打者がほしいという西武の希望が石井氏だった。移籍1年目は気負った部分や腰を痛める怪我もあったが、2年目の2004年、持ち味を発揮した。規定打席不足ながらも打率.304をマークした。ダイエーとのプレーオフ(当時)でも代打で登場し、新垣渚投手から二塁打を放つなど、リーグ優勝に貢献した。

「西武の2年目以降、自分らしくできるようになった。2004年の(プレーオフ)セカンドステージ第5戦の新垣投手から代打でレフトオーバーは良い思い出です。日本シリーズに出場して、日本一。思い出に残っています」

 自分らしくとは、バッティングに重きを置くことだった。パ・リーグにはDH制もある。守備は多めに見てもらい、長所を伸ばしていった。

「DHでいいじゃないかと思い始めるようになったのが大きかったです。(当時)渡辺久信監督さんは買ってくれていたんじゃないかなと思います」

交流戦では大活躍、セ・リーグ投手を打ちまくる

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