条件付きで校長になった“二刀流監督” 創部初の甲子園出場を確実にした名将の極意
校長として大切にしている2つのこととは
「ちょっと手術すれば終わりかなと思っていたら、3か月も仕事を休んでしまった」。病室で長時間、横になって過ごす生活。励みになったのは、お見舞いに来る教え子たちの存在だった。昔話で盛り上がり、成長した姿を見る時間が幸せだった。そして、当時は野球の指導から離れていた上村監督に、ある感情が芽生えた。「最後に、もう1度野球がやりたい」。縁あって、2017年春に聖隷クリストファーの副校長を務めることになった。管理職には抵抗があったが、野球をやらせてもらえるという“確約”を取って引き受けた。
ところが、最初の半年間は副校長専任でユニホームを着られなかった。2017年秋に監督に就いたが、昨年、今度は理事長から思いもよらない打診を受けた。「野球をやめて校長をやってほしい」。上村監督は「野球をやるために、この学校に来たんです」と拒否した。理事長は納得しない。話し合いは平行線が続いて結論が出ない中、上村監督が折衷案を示した。「なぜか、野球をやらせてもらえるなら校長を引き受けますと言ってしまった」。話がまとまり、校長を兼任する異色の監督となった。
野球部の練習中、グラウンドには生徒指導の教員や学年主任が訪ねてくる時もある。校長の研修や会議で出張し、部活に顔を出せない時もある。監督と校長の両立は簡単ではない。上村監督は「自分は校長の器でもないし、能力もない」と話す。大切にしているのは2つ。最終的な決断をすることと、責任を取ること。そして、教員には「どうせできないと、行動を起こす前から諦めないでほしい」と伝えているという。
野球部のグラウンドから見える建物を改修したのも、上村校長のメッセージを形にしたものの1つだ。元々、勉強合宿の際に生徒が宿泊するために造られた建物だったが、今は教室に変わっている。宿泊施設自体に反対する教員が多い中で建設され、稼働率も低かったという。教員の間では別の用途で有効活用した方が良いという声が上がっていたが、「どうせ、上に考えを伝えたところで変わらない」と諦めていたという。ところが、上村校長が高校を運営する法人に掛け合うと、理解を示して改修が決まった。
思い通りにいかないことは多い。でも、何とかできることもある。校長との“二刀流”という異色の監督に、諦めるという選択肢はない。
○上村敏正(うえむら・としまさ) 1957(昭和32)年5月25日生まれ。静岡県浜松市出身。浜松商3年夏に捕手で甲子園出場。1回戦で勝ち越し打を放ち、3回戦まで進出。早大卒業後に御殿場高の監督を経て浜松商で春夏計6度甲子園出場を果たした。2009年に掛川西で選抜出場。2017年に聖隷クリストファーの監督に就任。2020年から校長を兼務する。
(間淳 / Jun Aida)